1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 行き先も決めずに始めた「探究」はクーデターだった:私の謎 柄谷行人回想録⑱

行き先も決めずに始めた「探究」はクーデターだった:私の謎 柄谷行人回想録⑱

記事:じんぶん堂企画室

1980年代の柄谷さん=本人提供
1980年代の柄谷さん=本人提供

――前回は、理論的な集大成として取り組んだ「言語・数・貨幣」の連載中に精神的に追い詰められて1983年秋に連載を中断した当時のお話をお聞きしました。(第17回参照) その柄谷さんが、「群像」85年1月号から新たに取り組んだのが「探究」です。

柄谷 「探究」を始めたのは、ウィトゲンシュタインの影響が大きかったと記憶しています。「探究」というタイトルもウィトゲンシュタインの『哲学探究』から来ている。彼は、体系的な哲学者の対極にある人でしょう。僕も、体系をつくろうとするのはやめて、そのときどきに考えたことを書こう、と思った。それで、何を書くかも決めずにタイトルだけを決めて始めた。

《ウィトゲンシュタイン(1889~1951)は、オーストリアの哲学者。ケンブリッジ大学教授。分析哲学の形成と発展に大きな影響を与えた20世紀最大の哲学者の一人。その思想は前期と後期に分けられ、それぞれ主著として生前唯一の著作『論理哲学論考』と死後刊行された『哲学探究』が知られる》

写真:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン=Moritz Nähr, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
写真:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン=Moritz Nähr, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

――「言語・数・貨幣」で重要な役割を果たしたのは数学者のゲーデルでしたが、柄谷さんは、ウィトゲンシュタインの「私の問題は、例えばゲーデルの証明について語ることではなく、そのわきを通って語ることである」という言葉を引用して、ウィトゲンシュタインもゲーデルを意識していると書かれていました。実際に、「探究」連載開始当初の部分は、『内省と遡行』の単行本の最後に、「転回のための八章」として収録されますね。「窮した果ての再度の試みが『探究』だった」と(『内省と遡行』あとがき)。

柄谷 そうですか。もう覚えてない。ただ、大きな挫折を経験したわけだけど、「探究」を始めたときには晴れ晴れとした気分でしたね。

書くことが生きること

――連載は88年10月号まで4年近く続き、93年から96年にかけて「探究Ⅲ」の連載があります。

柄谷 足かけ15年くらいやったことになるわけか。その間ずっと、その都度考えたことを書いていった感じだった。

――「考えたことをそのまま書く」というのは、大きな変化だったようですね。柄谷さん自身は、それまでは決着をつけようとして仕事をしていて、ずっと緊張と焦りがあったけれど、その気持ちがなくなった、と振り返っています。「たんに理論的なものでないような、根本的な『態度の変更』がおこった」「私のなかでのクーデターであった」「書くことが生きることであるということを、私ははじめて実感している」とも( 『探究Ⅰ』「あとがき」「『学術文庫版』へのあとがき」)。

柄谷 大袈裟だね。まあ、そんなに言うんだったら、そうなんだろう。別に反対はしない(笑)。読者として想定していたポール・ド・マンが死んで、誰に向かって書くということもなくなった。文芸誌の連載だったから、自由にやれたし。小説や文芸評論が並んでいるなかで、一人だけ妙なことを書いていたけど、それも許された。むしろ歓迎してもらえた。

――「探究」の連載のうち、改稿したり、順番を入れ替えたりしながら、おおむね最初の1年半分が『探究Ⅰ』、残りが『探究Ⅱ』として単行本化されます。

柄谷 本にするときには、だいぶん編集したと思うけどね。

《『探究Ⅰ』で、柄谷さんは、 “独我論“を、「自分にあてはまることは万人に当てはまるという考え方」と定義し、そこから出ようと試みる。具体的には、『哲学探究』でのウィトゲンシュタインにヒントを得て、“語る-聞く”という関係から、“教える-学ぶ”という関係に転換し、“教える”立場から考察した。柄谷さんによれば、 “語る-聴く”という関係は、西洋哲学に典型的なあり方で、話の通じる相手、自分とあらかじめ規則を共有しているような相手を想定している。他者と対話しているように見えても、本当の他者ではなく“独我論”に陥ってしまう。一方で、“教えるー学ぶ”という関係には、規則を共有しない他者がいると論じる》

――『探究Ⅰ』の大きなテーマは、“他者”あるいは“外部”だと書かれています。

柄谷 ここのところ「探究」を読み返して、そういう言葉があったことを思い出しました。昨年、「探究」の中国語訳が出たので、その序文を書かなければいけなくて、そのときにも読み返したんだけど、何が書いてあるかよく分からなかったから、すぐ忘れちゃった。いつものパターンです(笑)。ただ、翻訳者の王欽さんに、「探究」の主要概念、“他者”“外部”“単独性”などは、交換様式論の、それもDのベースにあるのではないか、と指摘されて、言われてみればそうなのかな、と思ったことを覚えている。ただ、自分でそういうことを踏み込んで考えることは、僕にはやろうと思ってもできないんですよ。

《“交換様式”は、柄谷さんが社会のシステムを交換から見ることで編み出した独自の概念。A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている 》

――“外部”や“他者”という問題は、柄谷さんにとって初期の漱石論から持っているテーマでもありますね。(第8回参照)

柄谷 どうやらそうなんだね。僕としては、常に新しいことをやっているつもりだったけど、同じことを繰り返していただけだったのかも(笑)。だけど、やっぱりその都度飛躍があった。

他者としての外国語話者と子ども、そして猫

――「探究」が交換様式論に発展していった、という実感を持っている、ということは以前にも言われていましたね。「探究」に出て来る交換の問題というと、まず、マルクスの商品交換でしょうか。“教える-学ぶ”と同じような関係として“売る-買う”という関係もあげています。

柄谷 そうですね。交換様式Cに発展していく問題です。商品交換ついては大きく取り上げました。『マルクス、その可能性の中心』の続きのような内容だったと思います。

――“語る-聞く”という関係から“教える-学ぶ”という関係への転換が示されているように、コミュニケーションが一つのテーマと言えると思います。コミュニケーション自体が一種の交換だと考えることもできますか。

柄谷 そう思います。ただ、この頃はまだ、交換様式でいうような意味での“交換”という考えは持っていなかった。つまり、“交換”を、生産様式にかわる新しい経済的下部構造として捉える、という考えがまだなかった。

――コミュニケーションというものは、“非対称的”なのだ、と書かれています。ふつう、教える-学ぶという関係でいえば、教える側が優位だと思ってしまいますが、柄谷さんはむしろ学ぶ側に優位性をみていますね。

柄谷 学ぶ側にその気がなかったら成り立たないしね。教える立場というのは、ある意味で非常に無力で情けないものなんですよ 。人間同士は、お互いを見通せないし、同じ発想や立場を共有しているわけでもない。それが身に染みる立場です。必ずしも教師と生徒の関係における教師の立場、親と子どもの関係における親の立場が“教える立場”なのではなくて、何かを伝えようとするときには、誰しもが“教える立場”に立たされるわけです。

――コミュニケーションにあっては、お互いがお互いにとって“セキュラーな他者”である、とも書かれていることも印象的です。“セキュラー”というのは、“世俗的”という意味だと思いますが。

柄谷 神のような絶対他者、超越的他者ではなくて、ということですよね。超越的他者については、好き勝手に想像できるからね。だけど、身近な他者についてはそうはいかない。すぐに文句を言ってくるし(笑)。あるいは、こちらに完全に無関心であるとか。そういう意味では、身近な他者のほうが神より手ごわい。

――“他者”の例として、外国語話者や子どもなど、同じ規則を共有していない人たちを挙げていますね。“子ども”についていえば、「われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である」と書かれていました(笑)。柄谷さん自身は、文芸評論家としてデビューした頃にお子さんが生まれて、アメリカにも一緒に行っていたことなどをエッセーで書かれていますが、「探究」で子どもの例えが出てくることには、ご自身の子育ての経験も影響しているのでしょうか。

柄谷 そういう意図はなかったですね。ただ、僕はいい父親ではなかった。どうしても子どもを自分の延長として捉えてしまうところがあって、独立した人格として扱うことが難しかった。それを反省して態度を改めると、今度は、無関心になったと思わせてしまったり。子育てというのは、こちらの至らなさを非情につきつけてくる。その経験が反映されているといえないことはないかもしれない。

――ウィトゲンシュタインが、一時期哲学を離れて小学校の教師をやっていたことにも言及されています。

柄谷 そうだった。彼はひどい癇癪持ちだったりして、学校ではいろいろと厄介な問題を起こしたらしい。子どもたちとの関係では、打ちのめされたかもしれないね。

――他者の例えとしては、猫も登場しますね。

柄谷 (笑)。猫は、犬と違って言うことを聞かないし、勝手気ままだから。ただ、こいつは食べ物をくれるな、とかそういうことは向こうも分かって寄って来る。こちらは、「現金な奴め」と思いながらも、つい可愛がってしまう(笑)。それで関係が成立する。

2008年、講演先のイスタンブールで野良猫と。どこにいっても、動物が寄ってくるという。
2008年、講演先のイスタンブールで野良猫と。どこにいっても、動物が寄ってくるという。

――ご自分でも猫を飼われていたんですよね。

柄谷 子どもの頃は、野良猫が家に通ってきていた。当時は一般に、猫を「飼う」というような発想はなかったと思います。庭にやってくる野良猫に餌をやると、毎日くるようになる、という感じでした。庭で子猫を産んだりもしていた。僕の母親は、家が汚れるからといって猫を家に上げなかった。だけど、母親が留守のときに、僕は猫を家に入れていた。猫はそれをちゃんと分かっていて、母親がいないと僕に入れてくれとせがむんだ。黒猫だったから、クロと呼んでた。そのうち、来なくなっちゃった。たぶん、死んだんでしょう。昔の猫は、死期を悟ると姿を消して、人目につかないところで静かに死んだんです。自分で自分を葬るんだから、偉いよ。

――さみしいですけど、確かに立派です。

柄谷 伝説の高僧みたいでしょ。というか、高僧が猫のようだった、というべきか(笑)。だけど不思議なもので、しばらくするとまた別の黒猫がやって来るんだ。それでまたそれをクロと呼ぶ。そんなふうにして、これまで4匹くらいのクロと一緒に過ごしたかな。東京でも、迷い込んできた黒猫を飼った。もちろん名前はクロ(笑)。何となく僕の中では、すべてのクロが一つの集合体の一部のような感じなんだよね。もしかするとクロは、ダライ・ラマみたいに転生を繰り返しているのかも(笑)。

コミュニケーションの不思議

――ダライ・ラマ(笑)。しかし、そういう“他者”を想定すると、コミュニケーションの難しさが際立つ感じがします。

柄谷 僕が言いたかったのは、難しさというよりも、それでもなお関係が成立する、ということの不思議だったんじゃないかと思う。猫との関係じゃないけど、すれ違うだけになってもいいはずの者同士が、一緒にやっていくことができるわけでしょう。もしくは、万人にとって万人が敵だ、というような世界になりそうなものなのに、そうはならない。少なくとも、それが全部にはならない。

――「探究」でも柄谷さんが引用しているマルクスの言葉で言えば、そこに“命がけの飛躍”があるということでしょうか。話が通じるかわからない相手に、言葉を投げかける。あるいは、買ってくれるかわからない相手に、ものを売ろうとする。もちろん、失敗することも多々ある。しかし、その跳躍があって初めて、他者との間にコミュニケーションが成立しうるというような。

柄谷 “交換”一般に、命がけの飛躍があるというのは、その通りです。ただ、自分が自分の意志で飛躍するんじゃないですよ。そうじゃなくて、交換が成立したということは、知らない間に飛躍が起こっていた、ということなんです。
それに関係して、僕がいま思うのは、こういうことです。いまみたいに、資本主義経済、つまり交換様式Cにすべてが覆いつくされた世界にあっても、なお商品交換に還元されえない関係が残っている。交換様式Cにあっては、人も物もすべてが資本蓄積の手段にされて、取り換え可能なものにされてしまう。だけど、それが及ばない領域が残っている。これは、考えてみれば不思議なことです。なぜ残っているのか、それは、交換様式でいえば、Aの力が働いているからなんです。

――贈与と返礼の関係ですね。人が誰かに何かを与えると、もらった側はそれに応えないといけないという力が働く。

柄谷 それ以上に、Aには、交換を超えた純粋贈与へと人を駆り立てる要素が含まれている。だけど、さっき言ったように、「探究」の頃には、交換様式でいうところの交換は、まだ捕らえていなかった。たとえば、コミュニケーションというと、普通は、文化的な問題のように考えられているでしょう。「探究」のコミュニケーション論も、文化論風ですよね。
もう十年以上前のことだけど、アメリカに行ったときに、交換様式を、“コミュニケーション様式”といいかえてはだめか、と質問されたことがあった。その人は、経済も、国家機構も、コミュニケーションの一様式として捉えるのがいいと思う、と。だけど、僕は、それは絶対にだめだ、と答えた。なぜかというと、交換様式における“交換”は、“経済的下部構造”であって、文化的問題(上部構造)じゃないからです。文化的な問題だと思われていたことを、経済的なものとしてとらえ直したところが、交換様式の一つの新しさだった。それは、経済というものを定義し直す試みでもありました。実は、コミュニケーション様式というような発想は、典型的なんです。これは結局、マルクス的な経済決定論を消そうという企てです。

――「探究」では、“交通”という言葉を使われています。“交通(コミュニケーション)”とカッコ書きされている場合もありますが、単なる“コミュニケーション”だけではなくて、交換様式の意味での“交換”に近いと考えてよいのでしょうか。

柄谷 まさにその通りです。“交通”は、とても広い意味合いの言葉です。マルクスの年上の友人だったモーゼス・ヘスの用語です。交通には、コミュニケーション、交易や戦争まで含まれます。
そういえば、「交換様式は、本当は交通様式というべきではないか」と指摘されたこともあった。これもアメリカで受けた質問です。それは正しいんです。だけど、交通と言われても、ピンと来ないでしょう。日本語だと、バスとか電車とかそういう交通だと思われるし、英語ではintercourseだから、性的なことだと思われてしまう。まあ、交換様式といったところで分かりやすいわけじゃないけど、交通様式よりはましでしょ。

――“交通”は『探究Ⅱ』へと引き継がれるテーマですね。『探究Ⅱ』では、『探究Ⅰ』の他者論を踏まえて、“この私”への論が進みます。

《『探究Ⅰ』で“他者”を論じた柄谷さんは、『探究Ⅱ』で、非対称なコミュニケーションを“この私”という別の面から考察していく。一般性と特殊性、普遍性と個別性といったような二項からはとらえきれないような何かとして、“単独性”や“取り換え不可能性”を示す。実存主義がテーマとしていた“単独性”について、実存を軽視する構造主義を経て、構造に回収されない単独性とは何か、というの課題に取り組んだ。柄谷さんは、共通の規則を持たない単独者同士がお互いに他者として交通しあう空間を“社会”、逆に共通の規則を持つもの同士の空間は“共同体”として論じた》

柄谷 僕は、大学生の頃、哲学の本になじめなかった。哲学が、“人間”を論じていても、その人間は、抽象化された人間であるようにしか思えなかった。だから、自分に関係のある話だという実感を持ちにくかった。“私”と書かれていても、実際には誰にでも当てはまるような一般化された私のことを言っている。自分が特別な人間だと思っていた、ということではないですよ。僕はありふれた人間です。だけど、特別であろうとありふれていようと、 “この私”というのは、特殊性と一般性というような二項ではとらえられない。それを、単独性と呼んだんです。

――“単独性”は重要なキーワードですね。

柄谷 単独性については、とくに宗教関係の人から、交換様式Dに結びつく発想だ、との指摘を何度か受けました。当時ではなくて、この十年くらいの間です。
“他ならぬこの人”とか“この猫”とかに執着して愛着するというのは、いっけん愛のようだけれど、大抵はナルシシズムなんだよね。“単独性”、その人がその人であるということは、そういう執着とは無関係の問題です。単独性を見出すというのは、本当は難しいことなんだ。宗教は、その困難についてよく考えてきた。

――「探究」では、宗教批判についても論じられています。宗教批判については、マルクスが、宗教の批判がすべての批判の元にあるとしていたことに、若いころから言及されていました。

柄谷 宗教は哲学の元にあったものだし、すべての元だといえます。僕は、今でも“宗教批判”ですよ。批判というのは、非難することではなくて、吟味することです。すぐれた宗教というのは、宗教批判として出てきた。宗教にとっても、宗教批判は必須です。

――90年代には「探究Ⅲ」があるわけですが、これは「トランスクリティーク」という別の大きな仕事につながりますので、改めてじっくり聞くことにして、先に80年代から90年代、「批評空間」前後の時期について聞かせてください。

柄谷 わかりました。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、「批評空間」についてなど。月1回更新予定)

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ