ジュディス・バトラーとは逆の道のりを考える 『脱成長と食と幸福』
記事:白水社
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われわれは良き生に相応しい倫理について問うことが可能だ。もし、ジョン・スチュアート・ミルが考えたように、「主要な倫理的問題は、個人の幸福と共通善を和解させる」ことにあるならば、脱成長の企ては十分に解決の糸口となる。この点において脱成長の企ては、すべての人が良き生をおくるための客観的条件を提供するジュディス・バトラーの研究に通じる。
友人のマウリツィオ・パランテが普及した「幸せな脱成長」という表現を私が決して採用しないのは、この表現に意味論上の曖昧さがあるという問題の他に、幸せな生活の成功が決して保証されないからだという理由がある。そのかわり私は、穏やかな脱成長、持続可能な脱成長、もしくは自立共生的な脱成長という表現を用いることを好む。
脱成長の道は、可能なもうひとつの世界の発見へと開かれている。望ましいが決して知りえない不確かな未来においてだけでなく、今ここで生きるためにも、この道に誘う価値がある。このもう一つの世界は未来のなかにある。そしてわれわれのなかにもある。この意味で、脱成長の企ては、「つらい人生のなかに良き生をもたらす」というジュディス・バトラーの問題関心と共鳴する。
しかし、経済学を専門とする私は、ジュディス・バトラーとは異なり、個人の倫理から出発して社会変革に至るのではなく、むしろその逆で、不可欠な文化的断絶から個人の生活へのさまざまな含意へと至る道を構想している。
脱成長の道は、地上の至福への到達を保証するものではないにしても、経済成長社会が生み出した大規模な退廃への解決となる。脱成長の道は、自然環境と社会環境のなかでの調和した生き方を再発見することによって自尊心を再び獲得するための脱出の道だ。
エコフェミニストで脱成長の先駆者であるフランソワーズ・ドボンヌは、社会主義について「幸福を保証するものではなく、強いられた不幸を終わらせるものだ」と述べている。
脱成長の道はまさに、より公正でより民主的なエコロジカル社会主義社会の構築を目指している。つまり欲求の自己制御に基づいた、節度ある豊さを享受するディーセントな社会を構築するのだ。
存在への同意は存在者への服従ではない。良心的な経済成長反対論者は、経済という凡庸な悪に加担する消費主義に抵抗しながら新しい幸福を発明する。
新しい幸福とは、歓びのなかで生きる技法のことだ。
ベートーヴェンが交響曲第九番の冒頭を飾るあの有名な賛歌で称えている歓び、そしてヨハン=セバスチャン・バッハの同じく有名なコラールで称えられている歓びは、生きているという実感、そして自然環境や周囲の人々と調和しているという感覚から得られる感情である。
この感情は普遍的に共有されている。
脱成長のもう一人の先駆者ジャン・ジオノは、コンタドゥール共同体の実験を通じてオルタナティブ社会の構築に熱心に取り組んでいた。この時期に書かれた彼の著作の一つに、「人の望みの歓びよ!」というバッハのコラールの題が使われたのは、偶然ではないのである。
【セルジュ・ラトゥーシュ『脱成長と食と幸福』「第1部 脱成長、そして幸福の逆説──簡素に生きる歓び」より】