分断に抗う壁画――アートが育てるアメリカのコミュニティ
記事:明石書店
記事:明石書店
本書は、フィラデルフィア・ミューラル・アート・プログラム(以下、MAPと省略)という、壁画制作集団の活動を通して、20世紀末のアメリカ都市コミュニティとそこに生きる人々の在り様、葛藤、協働に光を当てる。MAPは1984年に落書対策のために市長によって設立された。ジェーン・ゴールデンという壁画作家の指導で、落書ライターの青少年にアートの技術を学ばせ、MAPは積極的に壁画を描く集団として成長した。MAPの壁画は、町の美化への貢献だけでなく、1980年代以降に特に顕著になった、アメリカの都市の荒廃、薬物、貧困、格差、移民、人種、戦争などの社会的、政治的なテーマや問題を取り上げてきた。現在4000枚もの壁画がその存在感を誇示し、フィラデルフィアは、「壁画の街」と呼ばれる。
MAPの壁画は、分断や対立をあおるものではなく、むしろ、市民が共同で壁画を描くことによって、人々の心を変え、協働や和解を促し、コミュニティを育もうというものである。MAP設立当初からの責任者であるジェーン・ゴールデンは、壁画はフィラデルフィアの自伝であると言う。
「人々を、人々の生きざまを、たたかいを、苦難を、心の傷を、夢を、願いを、すべてを表現しているのです。今の世の中では、一人ひとりの命が粗末に扱われ、分断がまかり通っていますが、私たちの壁画は、人々に、私たちの命はかけがえがないと告げています。人々の魂に尊厳を持たせることが私たちの仕事です。」「この仕事は、多くの多様な人々によって成し遂げられました。『アートが変化に火をつける』とは、私たちが常々考えている事であり、人々の生活に深い影響力を持つという意味です。」「アートの創造的力が市民、すべての市民の回復力に火をつけるのです。」(本書pp. 9-11)
創立40周年を迎える2024年のMAP。今年のテーマは、“Roots & Reimagination”である。9月から10月は、「壁画月間(Mural Month)」として、様々な取り組みが目白押しにならぶ(https://www.muralarts.org/)。ゴールデンは、「希望と対話に満ちた作品で、力をあわせて都市空間を変化させる」というパブリック・アートの営みを今後も継続すると、決意表明している。
「民衆のアート(People’s Art)」としてのパブリック・アートは、1960年代の社会変革運動の波(黒人公民権獲得運動)の中で、芽生え発展した。政府が芸術家を支援するという、パブリック・アート政策(ニューディール)を乗り越えて、下からの運動・実践として、「社会関与型アート」としてアメリカ社会に浸透していくのは、1960年代以降であり、これを担ったのは、政治的自覚を持った「アクティヴィスト・アーティスト」である。
時には美しく、人を魅了するアートもあったが、多くは街を汚し、景観を損なう邪魔者としての「ストリート・アート」(落書:Graffiti)が街にあふれたのは、1980年代であり、当時のアメリカの都市社会には、まさに経済発展にブレーキがかかり、脱工業化する都市、貧富の差の拡大などの深刻な問題がのしかかっていた。MAPの創立の精神は、ストリート・アーティストたちを「アクティヴィスト・アーティスト」に育てようというものだった。MAPは当初は「落書撲滅ネットワーク」として発足したのだった。
フィラデルフィア市は、一貫してMAPの取り組みを後援してきている。パブリック・アートを育てることが市民を育て、コミュニティを育てることになるという、ジェーン・ゴールデンらの説得を受け入れてきた。フィラデルフィア市民も、MAPを受け入れ、MAPと共に壁画を作ってきた。合衆国発足の地としてのフィラデルフィア市のアイデンティティに、いまや、「壁画の街」が加わった。
2024年大統領選挙の投票日が一か月後に迫ってきた。選挙戦のさなかに候補者が銃撃に晒されるという、目を覆いたくなるような惨状が、「自由と民主主義を国是とする」国で繰り広げられている。対立や憎悪が強調されるアメリカ社会である。どちらが大統領に選ばれても、混乱は避けられないというのが、大方の評論家の見方であろう。
しかしながら、「分断に抗い」、「本当に不利な状況にある人々(The Truly Disadvantaged People)」に寄り添い、コミュニティを立て直そうと奮闘する人々も、多く存在する。報道では取り上げられないが、多元的な社会では避けて通ることができない「分断」という問題に正面から取り組んでいる人々がいる。このことが、本書でもっとも訴えたかったことだ。
「我々の社会では、差別や格差を一挙に是正する万能薬はもはやありません。多元的なアイデンティティのもとで、多様な生を享受する社会において、人々を結び付け、差別に抗い、格差を是正しようとするための多種多様な活動が生まれています。」もちろん「アートも社会問題を解決する万能薬ではありません。」 本書は「アートを社会変革の起爆剤としようとする」人々を描こうとしたものです。「歴史に関心のある人、アートに関心のある人、そして差別に抗うことを是とする人々に本書を手にしていただきたい。」(藤川隆男氏の本書「序言」pp. 4-5)