パリ五輪2024を振りかえる 雑誌『ふらんす』(白水社)10月号より
記事:白水社
記事:白水社
3年前、東京オリンピックの閉幕にあたって、パリとの引き継ぎ式が行われた。そのとき放映された予告映像は、パリ大会の前兆ともいえるものだった。映っていたのはパリの屋根の上に集う自転車BMXやパルクールの選手たち。私は苦笑し、「いかにもフランスらしい」と思った。危険を伴う可能性があり、不法行為にだってなりかねない行動(首都で屋根の上に登るには許可が必要)を、悪びれず宣伝に使ってしまうのだから。優等生の東京が「安心・安全」を優先し、新型コロナのパンデミック対策として無観客で五輪を開催するに至ったのとは対照的な、掟破りのパリ。そう感じた私は間違っていなかった。
【The Tokyo 2020 closing ceremony! | Full replayより:02h30m過ぎ】
2024年パリオリンピックの開会式は、あのときの予感を100倍返しで立証してくれた。あらかじめ断っておくと、私はこの「屋外」開催の式典、型破りで異次元(日本語のこの表現がしっくりくる)だった開会式を良いと思った。だからこそ、テロの危険にさらされ、雨が全てを台なしにしかねなかったにもかかわらず、トラブルも事故もなく式が進行して、とても嬉しかった。特にフランスらしいと思ったのは、お約束のイメージを提示する(ラグビーのワールドカップの開会式がそうだった)方面の話ではなく、非常に現代的なある種のフランスのエスプリを反映していたからだ。予告映像の続編さながらに再度パリの屋根の上を走ったシーンでも、歴史劇のようで、音楽やダンスにあふれ、祝祭的で、かつ多くの意味を込められた、諸々の場面(タブロー)にしても、たしかにあったのは、掟破り(transgression)の精神だった。
【BREATHTAKING Opening Ceremony | Rugby World Cup 2023】
全体は12のテーマ、語末が「テ(té)」で終わる12の単語で編成されていた。「はじめまして/嬉しい/魔法にかかった」を意味する « enchanté » に始まり、「同時性synchronicité」、フランスの標語で知られる3つの語「自由 liberté」、「平等égalité」、「博愛(兄弟愛)fraternité」ときたところで、最近とみに流行している言葉「ソロリテ(姉妹愛)sororité」。オリンピックと関わりの深い「スポーツマンシップ sportivité」と「祝祭festivité」の2語があり、そこから「闇 obscurité」、「連帯 solidarité」、「荘厳 solennité」、「永遠éternité」へと続いた。
【Full Opening Ceremony ✨| Full Replay | Paris Replays】
「自由」のテーマの場面(タブロー)でマリー・アントワネットが切られた自分の首を両手に抱え、フランスのヘヴィメタルバンド、ゴジラと一緒に「ア、サ・イラ、サ・イラ(上手くいくさ)」と革命歌を歌う場面は、非常にきわどく、常識外れで、皮肉だった。ドラァグ・クイーンが登場した場面も同様。こうした大袈裟な誇張、自分を戯画化する能力こそが、とてもフランス的だと私は思っている。それが国外で理解されるかどうかは定かでなく、難しいところだ。開会式の芸術監督を務めたのは、非常に著名な舞台演出家トマ・ジョリー。演劇の特質は、特徴を拡大し誇張することにある。それが良識に反するかといえば、そんなことは全くない。
【Gojira - Mea Culpa (Ah! Ça ira!) [OFFICIAL AUDIO]】
最良の例は、歴史に名を残すフランスの偉大なフェミニストたちを紹介したくだり。女性たちの像をセーヌ川から登場させ、その姿を全世界に示したことは強烈なメッセージになった。式典全体を通して性的少数者を前面に出し、多様性を顕示したのも大胆な企てだったが、でもそれこそが私たちの時代だ。もっとも批判を浴びた場面(タブロー)は、歌手のフィリップ・カトリーヌが全裸すれすれの身体を青く塗り、食卓の大皿の真ん中で横座りをしていたところ。キリスト教徒界隈では、これをレオナルド・ダ・ヴィンチがイエスと使徒たちを描いた絵画『最後の晩餐』の容認しがたいパロディだと解釈した。トマ・ジョリー自らが反論にあたり、参照したのはその場面ではない、フィリップ・カトリーヌの扮装はギリシャ神話のディオニソス(またはバッカス)だと釈明した。残念ながら、そしてこれまたフランスらしいことに、そこから大論争が巻き起こり、事態は悪化した。トマ・ジョリーを含む複数の関係者がネット上で攻撃や脅迫の標的となり、告訴を余儀なくされたのだった。
【Honorer 10 femmes extraordinaires avec des statues aux Jeux olympiques de Paris 2024】
我が国に関して、とくに最近のフランスの傾向を暗示していたのは、開会式をめぐる政治的な分断だ。式典開催の前段階から、歌手アヤ・ナカムラが出演して「ラ・マルセイエーズ」を歌うかもしれないという情報が出ただけで(実際は国歌は歌わなかった)、このアーティストはフランス代表たりえないと極右が怒りを示していた。一部の右派は式典終了後に同種の怒りを倍加させていたが、理由はまさに、複数の場面での演目内容が、彼らが主張する超保守主義的で閉鎖的な思想に逆らうものだったからだ。
私が開会式を好きだったのは、それが美しいスペクタクルだったからだ。その後のスポーツ競技は時間がなくて見ていない。ただ個人的には、こうした巨大なスポーツイベントが私たちの世界の現実に合わなくなっているという持論に変わりはない。巨額の費用を要し、運営側が常々自負するほどの効用をもたらしてもいない。世界は幸福で問題がないかのような幻想を抱かせるが、現実には数多くの紛争が起きている。気候温暖化に直面して、エネルギー節約のメッセージにもっと耳を傾けるべきなのに、むしろその逆を行っている。一体どうすれば、祝祭の意義を保ち、スポーツへの嗜好を高め、それと同時に、地球を愚弄し破壊するような無茶な浪費を避けることができるのか──今、提起された問題は複雑だ。
西村カリン(訳:深川聡子)
【雑誌『ふらんす』2024年10月号より】
*この記事を翻訳した深川聡子さんの「パリ・オリンピック見聞録」はこちら(前半・後半)。