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「ジェンダード・イノベーション(GI)」とは

記事:明石書店

『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店)
『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店)

 2022年にお茶の水女子大学に「ジェンダード・イノベーション研究所」が創設されてからというもの、ジェンダード・イノベーション(以下、GI)の知名度は大いに高まりました。その用語は、スタンフォード大学のロンダ・シービンガー教授によって2005年に創案されたのですが、最初の10年間ほどの認知度はきわめて低く、彼女の来日によって大学などの研究機関でやや知られるようになった程度でした。それが今や美容業界誌でも特集が組まれるほど身近なものになり、「フェムテック」といった言葉と共に大きなブームを巻き起こしています。

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 初めてこの用語に出会ったとき、筆者はやや戸惑いを感じました。読者の中にも同じような気持ちを抱く方がおられるかもしれません。戸惑いというのは以下のようなものです。これまでフェミニストたちは、男女の同等、とりわけ女性が劣るとされてきた理工系の能力について、素質に本質的な差があるわけではないと主張してきました。ところが、なぜここに来て両性の違いが強調されるのだろうかという思いが頭をよぎるのです。後にそれが浅薄な理解であったことを悟ることになるのですが。

 名詞のジェンダーでもわかりにくいのに、ジェンダード・イノベーションではこれが動詞の過去分詞形となってイノベーションを形容しています。スタンフォード大学のGIのウェブサイトには、最初にWhat is Gendered Innovations? とあり、「GIは、発見とイノベーションのために、性差分析の創造的な力を活用します。ジェンダーを考慮することで、研究に価値ある視点を加えて新たな方向に導くことができるかもしれません」と説明されています。しかし、これは効用であって定義ではありませんから、いまいちGIが何を指しているのかはわかりづらいかもしれません。伊藤公雄は、ジェンダーという言葉の概念変遷を丁寧に跡付けた後、GIを「生物学的・生理学的性差への配慮と共に、社会的に構築された性別の双方にきちんと目配りすることで新たな技術を生み出すこと」とし、加えて「性差による差別や排除、不利益や不平等が生じない社会をどう作り出すかもまた課題として設定」と述べておられます(伊藤 2018:47)。わずか2単語のこの用語に深い意味合いを付与し、とくに課題として付け加えられた部分は、GIが最終的に科学・技術の倫理性向上を目指していることから考えて、きわめて適切な読み込みです。

 わかりにくさのさらなる原因は、その抽象性にあります。科学とジェンダーを問題にするとき、シービンガーは改善策として、①女性数の増加、②組織や制度の整備、③知識の再検討の3点を挙げます。①は人材の問題であり、②は女性が研究を継続できる環境整備です。この2点は具体的ですが、③は知識の問題で抽象的なため想像しにくいのです。シービンガーは科学と技術に埋め込まれたジェンダーバイアスの克服を目指しており、その中心をなすのがGIだというのです。

 ここで「差異のフェミニズム(difference feminism)」とGIとの違いに触れておきましょう。ジェンダーの不平等が知識の創出と構造に組み込まれてきたことを明らかにした点で、差異のフェミニズムは一定の役割を果たしたと言えますが、安易に女性一般を措定することは危険です(シービンガー 2002:11)。わが国でも今世紀に入って女性研究者の増加が目指されたとき、女性の参加によって「これまで欠けていた女らしい視点を科学に付け加える」ということが謳われました。しかし、女性ということで一括りにできるような資質はなく、それによってイノベーションがもたらされるとするのは楽観的過ぎるように思われます。

 また科学・技術のジェンダー分析と、女性の参加や成功を混同することは望ましくありません。たしかにこれまで参加が少なかった女性研究者が、科学に埋め込まれたジェンダーバイアスに気づき、その解消に貢献する可能性は少なくないかもしれません。ただし、それはダイバーシティの問題で、性差分析とは別に論じるべき問題です。

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 ジェンダー研究は人文学や社会科学の内部で発展してきており、過去半世紀にわたってそれらの学問分野を大きく作り変えてきました。それでは客観的、普遍的とされる科学分野で、ジェンダーはどのような意味を持つのでしょうか。たしかに文系のジェンダー研究に比べ10年ほどの遅れはありますが、ようやく1980年代後半から科学の歴史をジェンダーの視点から見直す動きが始まり、分析が蓄積されてきています(小川 2020:85-105)。こうした研究に先鞭をつけたのは、エヴリン・F・ケラーですが、GIというアイデアを創案したシービンガーは、科学史分野におけるジェンダー研究で圧倒的人気を誇ってきた第一級の歴史家です。

 実際に過去の科学(主に生物学や医学)をジェンダーの視点から分析しますと、驚くばかりのバイアスに満ちていたことが明らかになっています。たとえば動物分類名は動物学的根拠に基づいていると思われるでしょう。ところが、マンマリア(哺乳綱 Mammalia)という分類名は18世紀後半に、当時の女性に期待されていた社会的な性別役割に配慮して考案された分類名であったことを、シービンガーは詳細な資料調査で明らかにし、世界の科学史家を魅了しました(シービンガー 2008)。こうした優れた分析研究事例の蓄積から、科学といえどもジェンダーと無縁ではなく、時代やその社会のジェンダーに強く拘束された面をもつことは、今日共通の理解になっています。

 やがてシービンガーの関心は過去から現代へ転じ、ジェンダー分析という手法を過去だけではなく、現在進行中の科学や工学の研究に応用したのです。社会的に構築された性差のみならず、生物学的に規定される性差であるセックスの分析も加え、慎重に性差分析を行うことによって、無意識のバイアスを取り除き、より良い科学や工学の創造を目指したのです。これこそがGIの始まりであり、これが2005年のことです。GIを通して、科学や工学の恩恵を、すべての人びとに平等に行き渡らせようというのです。

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 GIは、世界的な大きな広がりをもって推進されつつあります。「ジェンダード・イノベーション」として始まりましたが、今日では「インターセクショナル・イノベーション」とも言うべき研究の広さと深さを持つようになったことは、すばらしいことです。これからは目先の経済的な利益に囚われることなく、SDGsの達成も強く意識して進められることが重要です。創始者のシービンガーは環境保全について強い関心をもち続けています。そのことは、彼女の最近の大きな関心事が月経カップの普及であることにもよく表れていると思います。

 多様なバックグラウンドをもつ日本の研究者が集まり、GIの可能性について論考を寄せた試みは、本邦初のことだと思います。本書によって、日本のユニークなGI推進が進むことを願っています。

(本書の「序論」より抜粋、一部を修正)

なお、「ジェンダード・イノベーション」に関しまして、GIの提唱者ロンダ・シービンガー教授が来日し、以下のイベント・シンポジウムにいらっしゃいます。
・シンポジウム「ジェンダード・イノベーションが切り拓くDEI」:11/17@東北大学
・日本科学史学会生物学史分科会シンポジウム「ジェンダー、コロニアリズム、アグノトロジーと科学史――ロンダ・シービンガーの著作をめぐって」:11/18@東京大学
・『奴隷たちの秘密の薬』(工作舎)、『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店)の出版記念/ロンダ・シービンガー教授来日トークイベント「ロンダ・シービンガー教授に聞く「科学史とジェンダー」」:11/19@新宿紀伊國屋3階アカデミックラウンジ

参考文献
伊藤公雄(2018)「変容するGender概念――社会科学とGendered Innovation(性差研究に基づく技術革新)」『学術の動向』23巻12号、44-48頁。
小川眞里子(2020)「科学とジェンダー」、藤垣裕子責任編集『科学技術社会論の挑戦2 科学技術と社会――具体的課題群』東京大学出版会、85-105頁。
シービンガー、ロンダ(2002)『ジェンダーは科学を変える!?――医学・霊長類学から物理学・数学まで』小川眞里子・東川佐枝美・外山浩明訳、工作舎。
シービンガー、ロンダ(2008)『女性を弄ぶ博物学――リンネはなぜ乳房にこだわったのか?』小川眞里子・財部香枝訳、第2刷、工作舎。

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