デュマと19世紀フランス――アレクサンドル・デュマ『新訳 モンテ・クリスト伯』訳者解説より
記事:平凡社
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デュマが小説に手を染めるようになったのは30年代後半からで、その頃流行し始めた新聞小説でウジェーヌ・シューの『パリの神秘』が民衆の間で大評判になったことに刺激を受けてのことだった。最初独力で何冊か試作したが、有能な歴史家のオーギュスト・マケの協力を得るようになると、44年にまず『三銃士』の連載が始まり、読者の熱狂的な支持を得た。この連作はその後も断続的に続けられ、『二十年後』『ブラジュロンヌ子爵』などと50年まで続けられた。45年には『王妃マルゴ』の連作を開始し、これを55年に終えた。代表作『モンテ・クリスト伯』は44年から46年まで、途中何度かの中断があったが『ジュルナル・デ・デバ』紙に連載された。この中断は主に約束した他の仕事をせざるを得なかったためである。
彼がこのような大衆向けの歴史小説を精力的に次々に発表したというのは、もちろん金儲けのためもあるが、「ある程度ものを知っている読者階層を面白がらせるのみならず、その階級が今度は民衆という何も知らない者たちに、彼らから奪われている歴史意識を多少なりとも回復させるためでもある」と信じていた。
だから彼にとっては、「歴史小説という芸は真実のうちにはなく、本当らしさとロマネスクなものの巧妙な配合にある。このような創作法の核心には劇作家の経験が決定的であり、人物の登場と、対話、舞台装置、劇的な展開、山場などが小説を豊かにする」というのである。この意味で、デュマの小説は反バルザック的というべく、長い描写や説明を最小限にし、臆面もなくひたすらストーリーのスピードと面白さを追求することで、たえず読者の興味を引いたのだった。
このようにして書かれ、本職の歴史家のジュール・ミシュレにも評価された彼の歴史小説は約40点あるが、今ではほとんど読まれなくなっているものもある。これ以外にも彼は『回想録』『料理大辞典』などを手がけ、生涯230点近い作品を残すほど多産な作家だった。ただ、彼は長年の鷹揚さと乱費がたたって晩年は手元不如意になり、息子のデュマ・フィスの世話にならざるを得なくなったまま、1870年に他界した。
以上のように、デュマは19世紀フランスでもっとも有名な作家であったが、それがゆえにもっとも毀誉褒貶の多い作家の一人であった。例えば、小説を散文芸術にすべく骨身を削ったフローベールなどはデュマを毛嫌いしていた。そんな彼を同年生まれの友人ヴィクトール・ユゴーはこう評価していた。
「今世紀、いかなる名声もアレクサンドル・デュマの名声を超えることはなかった。アレクサンドル・デュマの名前はフランスを超えてヨーロッパ的になっている。いや、ヨーロッパを超えて世界的になっているのだ。
デュマは文明の種蒔きともいうべき人間のひとりであり、なんとも言えない陽気で力強い光によって人々の精神を健全にし、改善し、魂、頭脳、知性を豊かにする。彼は読書への渇きを創り出し、読者の心を掘り下げ、そこに種子を蒔く。彼が蒔くのはフランス的思想だが、これには多量の人間らしさが含まれ、それが浸透するどこでも、進歩を生み出す。アレクサンドル・デュマの多大な人気はそこに由来するのだ。
アレクサンドル・デュマは読者を誘惑し、魅了し、興味を搔き立て、面白がらせ、教示する。実に数多くの、多彩で、躍動感に満ち、魅力に富み、力強い彼の全作品は一種のフランス固有の光明から生まれた。ドラマのこのうえなく悲壮な情緒、戯曲の持つ深み、小説的な分析、歴史的な直観などはすべて、この巨大で軽妙な建築家が築いた驚くべき作品のうちに見られるのである。
彼の作品には闇も神秘も、地下世界も謎も、眩暈もない。ダンテ的なものは何もなく、すべてがヴォルテールやモリエール的である。いたるところに光彩、真昼、光の横溢があるのだ。その長所は多種多様であり、四十年に渡って、この精神は驚異的に己の力を使い果たした。
彼には何も欠けていなかった。義務である戦いも、幸福である勝利も」
そしてこのような評価が2002年にフランス政府のものとなり、デュマは偉人廟(パンテオン)に祀られ、遅まきながらユゴーの仲間入りをすることになった。