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「罰したい欲」だけでは、社会はよくならないのでは? 受刑者のエッセイから考える

記事:明石書店

『囚われし者たちの〈声〉』【増補版】より
『囚われし者たちの〈声〉』【増補版】より

受刑者とは何者なのか?

あまりに自己嫌悪がひどくなり、あるとき、ついに自分自身の姿を鏡で見られなくなってしまった。ひげを剃ることも止めてしまった。どうしてもひげを剃りたいときには、自分の目が映らないようにと、鏡にテープを張った。
わたしは……ひとりの……生き残った人間。自殺することもできないのなら、わたしは充実した日々を生きよう。自分を愛することを学ぼう。泣くことを……そして雲一つない青空を横切る鳥の美しさを愛でることを学ぼう。
(…)
かつて歩いた道をたどるなどという、人生を無駄に過ごすことなど……わたしはしないだろう。
(…)
今では、鏡にテープを張ることなく、わたしはひげを剃ることができる。

 これは、ある受刑者が書いたエッセイの一部です。罪状は不明ですが、子どもの頃にアルバイト先の監督者から性的虐待を受け、マリファナやアルコールの依存症になり、自殺未遂も何度もしていることが、エッセイに綴られています。

 受刑者と聞いて、彼のような人物像を想像する人は、多くはないのではないでしょうか。ドラマや映画では、犯罪者を生まれながらの真っ黒な悪として描いている作品も多いですし、ここ十数年でサイコパスという言葉も気軽に流行り、犯罪者は元々ヤバい奴、自分の生きる世界とは別の世界の人、みたいな漠然としたイメージを持っている人も少なくはない気がします。

 でも受刑者といえど、言葉で表現する機会があれば、こんなに素晴らしい詩とエッセイを書ける人々です。

 外的要因が何もなくても生まれながらに犯罪をするに至る人は、果たして存在するのでしょうか? 受刑者も人間であり、犯罪になってしまう行為以外の対処法を学べれば、行動は変わっていたのではないでしょうか? 自身に加害を行なった人への反撃/正当防衛か、関係のない人へ加害をしたかでも、議論の内容は変わってくるでしょう。

罪を犯した責任を取る方法は、刑罰のみでよいのか?

 となると、受刑者に科されるのは罰のみで良いのか?という疑問が浮かんできます。

 自分が被害者だったり、被害者の家族や友人だったりしたら、加害者を罰したいという思いを持って仕方ないと思います。しかし、大多数の第三者の立場からは、「再犯をどうしたら止められるか」を考えたい。社会全体で、“罰したい”という欲求のみでやってきた結果、加害者が学ばず、再犯に至り、被害者が増え続けるのは避けたいですよね。

 「刑務所というところ」というタイトルの受刑者による詩には、刑務所の在り方を考えさせられます。

空から大地が、憎悪から愛が、死から生が懸け離れているように、社会復帰や更生から遠く隔たったところ

 とはいえ、社会には刑罰も必要だと思います。加害者に被害経験があるわけではなく、女性蔑視や人種差別等の差別的価値観によって引き起こされる犯罪もあると考えると、とくに。女性支援の先駆者的存在である信田さよ子先生は毎日新聞の取材で、男性の行動が変わるかどうかは「刑罰の有無」にあると考えていると話していましたし、日本ではヘイトスピーチへの法整備もまだ道半ばです。

 しかしそういった犯罪も、差別的価値観が蔓延する社会環境が問題を引き起こしている側面があるわけですから、犯罪を“ヤバイ個人が暴走した結果”として捉え、加害者のみをただ罰するというのではなく、人権についてや、自分と他者という人間関係などについて、加害者が学べたほうがよいのではないでしょうか? こんなエッセイもあります。

教育を通してわたしは、貧しき者が貧しいのは貧しき者がそう望んでいるからだ、という考えに反駁できるようになった。女性蔑視の力学とその破滅的なまでの悪影響についても理解し始めた。誰かがアフリカ系アメリカ人は知的に劣るとか、ラテン・アメリカ系は劣った遺伝子ゆえに怠惰なのだと歪んだ説を述べ、それを傍らで座って聞いているだけでは、わたし自身にも責任のあることがわかった。性差別、人種差別、階級差別と同じく、好戦主義や愛国主義もまた危険になりうることを、本当に理解し始めた。性差別主義者、人種差別主義者、同性愛者にたいする固定観念に捕らわれている者に、はっきりと異議を唱え立ち向かえないのは、彼らとの受動的な共犯関係に過ぎないと、教育はわたしに教えてくれた。

 非常に核心をついたエッセイで、受刑者に学びの機会があることの重要性を感じさせられませんか。

 もちろん、素晴らしい考えを述べていたとしても、行動が伴わない人もいます。本書の中で、ある女性への感謝を綴っていた男性は、その後仮釈放となったけれど、その期間中にDVで逮捕となり、再度服役したそうです。しかし少なくとも、それを読んだ時の私の感想は、「DVクソ野郎」ではなく、「なぜ」でした。この「なぜ」が、社会を考えるうえで、まずは必要なのではないでしょうか。

 自分の行動には責任を取らなければいけません。その責任を取る、の形に、被害者のためにも、加害者のためにも、社会のためにも、罰を受けるだけでなく学ぶこと、自分や社会と向き合うことも含まれるべきだと、本書を読んでいると強く感じます。

刑務所は別世界のものではない

 というか、本当は初犯を止められたらベストです。本当は、罪を犯す前に精神的ケアだったり、経済的ケアだったり、必要な支援を受けられたら良い。しかし社会や国家はケアを女性に押し付け、福祉制度も軽視されてきました。また、教育への軽視や、教育機会で教えること/教えないことで偏見が助長されることも多々あります。

 だからケアワークの現場は人員不足なことが多かったり、ケアを受けるにはお金がかかったり、スティグマがあったりして、それを受けられない人も多いし、貧困のなかで生きるために犯罪行為に至る人や、感情を否定し続けて思いを言語化できずに暴力でしか表現できない人、偏った価値観を持って他者の人権を侵害する人が出てくるのではないでしょうか。

 学ぶ機会も、軍隊教育では意味がありません。受刑者のエッセイを読むかぎり、アメリカで当時、刑務所で確保されていた教育は、押し付けではなかったようです(羨ましいですね)。

刑務所における教育とは、特定の法則や一連の主義主張を学ぶことではない。人の名前や日付、なんらかの集団が成就したことを記憶することではない。刑務所での教育とは、何を考えるかではなく、いかに考えるかを学ぶことだ。それは、判断力のある人間を創り出すことであり、どんな羊飼いが来ても喜んで従うような騙されやすい「子羊」を育てることではない。(…)刑務所での教育は、知識を、知識とともに責任を、責任とともに行動を、行動とともに変化をもたらす。そして、変化というのは、エミリー・ディキンスンが希望と名づけた、つかみどころのない「魂に宿る羽のあるもの」かもしれず、教育と同じく、われわれ一人ひとりの内に住まう蝶を飛び立たせてくれるものである。

 また、外部からは、自分もケア/福祉/教育を受けたいのに受けられない、なのに犯罪者は受けられるという不満を持つ人もいるでしょう。似たようなことは本書でも述べられており、古川先生は、「看守によっては、自分たちが教育を受ける機会がないのに、受刑者は税金で学んでいると、教員や教育プログラム自体を批判する者もいる。(中略)所内での教育や職業訓練が再犯抑止に繋がり、結果的に一番大事な犯罪や被害者の数を減らすことに繋がることがわかっていても、なかなか自身の置かれた労働環境との間で納得がいかない」と述懐しています。

 その気持ちも理解できます。日本で考えると、生活保護の受給を批判する人の主張にも似ています。でもそういった感情を抱いた時にすべきは、今やっとケアや教育を受けられている人からもそれを奪うのではなく、自分たちを含む多くの人も必要とするそれを得られるように、社会を変えていくことです。

 まずは、罪を犯すに至るとは、どういうことなのか。受刑者とはどういう人なのか。自分が生きる社会はどうなっているのか。多くの人に、本書を読みながら考えてみてほしいと思います。

文:柳澤友加里(明石書店)

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