【祝・ダガー賞!】王谷晶さんが綴る、物語への偏愛と葛藤――エッセイ集『40歳だけど大人になりたい』(平凡社)より特別公開
記事:平凡社

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端的に言うと、「見てきたようなウソをつく」仕事である、小説を書くというのは。ただの大ボラではなく「見てきたような」の部分がミソで、ここをもってして人は「リアリティ」だとか「真に迫る」だとかいう評価を下す。どうやったらうまく見てきたようなウソを書くのかというと、一番いいのは実際に「見ちゃう」ことなんだけど、往々にしてそれができない・やりにくい題材も小説は取り扱うので、近いものを見るとか、見たことのある人の話を聞くとか、資料にあたるとか、そういう風にしてホラ話の地盤をかためるのである。実は「想像力」の出番はそこからだ(あくまで私のやり方ではありますが)。
公私共に、フィクションに耽溺しフィクションに生かされている人生である。人間がフィクションという腹の足しにもならないものを愛するから私も飯が食えていて、また、私も他人の作ったフィクションをガンガン消費することで日々の生きがいを得ている。フィクションがなくても人は死にはしないけど、フィクションのない生活は私にとってはあまりに虚しい。
子供のころから本当に「おはなし」の世界が好きだった。絵本やテレビ番組だけでなく、ごっこ遊びやおままごとの類も大好きだった(が、ごく幼少期から友達を作るのが下手なぼっちタイプだったため、一人で何役も演じてソロおままごとにいそしんでいた)。長じて流れるようなスムーズさでオタクになり、二次創作の世界に目覚め、青春のカロリーの大半をそっちの方面に注ぎ込みつつ、オリジナルの小説や詩や物語のプロットを書き続けて今に至る。
フィクションというものがあまりに身近にありすぎて、どうしてそれが好きなのかという根本的な部分をしっかり考えたことが、けっこうな年齢になるまでなかった。世の中には一切オタクっ気のない、生きる上で虚構の支えを必要としない人もたくさんいる(というかそのほうがマジョリティかもしれない)、ということを理解できるようになったのは、成人して働きはじめてからだ。
あとフィクションを楽しむタイプの人でも、二次創作的思考(「同人誌が欲しい」といった具体的な欲望以前に、自分の頭の中でフィクションの続きやIFを考えることも含める)を全くしない、欲しない人がいるということに気付いたときもびっくりした。誰もがみんな多かれ少なかれ「あのキャラクターがもし別の行動を取っていたら……」とか「舞台がここじゃなくてあっちだったら……」「あの子とあの人が付き合ったら……」みたいなことは自然と考えることだと思っていた。非オタクはもちろん、オタクの中にもこういう「IFをつらつら考える」系の遊びをしない人はいて、オタクなんだからてっきり「そっち系」の人と思い込んで話を振って妙にぎくしゃくした会話になってしまったことも何度かある。
フィクションとの付き合い方は、人によって濃淡もあるし傾向も違う。至極当たり前の話なんだけど、フィクションどっぷり人生をおくっているとたまにそこが見えなくなってしまうときがある。誰もが物語を愛し、物語を必要としているという思い込みを前提にしてしまうときがある。これはけっこう、あぶないことだなと最近よく考えるようになった。
フィクションを扱う職業を10年以上していて、長くやればやるほど、自分が取り扱っているのが「危険物」だなという認識が強くなっている。危険なものは存在すべきではないとか作るのをやめろとかいう話ではなく、雑に扱うと事故るなという緊張感が増してきている。実際、ボヤ程度から火山級までいろんなフィクションの炎上を目の当たりにしてきた。ここ数年世間を賑わせている陰謀論という概念も、言うたらフィクションと現実の境界がグズグズになってしまったときに起こる現象だ。フィクションに関するトラブル、オタク同士のもめごと程度だったら微笑ましい話だけど、陰謀論まで行くと人が死んだりするのでおおごとである。
フィクションとは、現実ではないもの、ここではないどこか、手で触れることのできないもの、虚構。そんな感じのものだけれど、しかしこの「現実ではないもの」の部分は実に繊細なあわいを持っていると思っていて、なぜなら、ドラゴンや河童は現実にはいないが、ドラゴンや河童の物語を読んだり作ったりしている私たちは現実世界の生き物だからだ。ここがややこしい。いや、本来ややこしくはないんだけど、ややこしくなってしまう人がややこしくしてしまうことが、ままある。
フィクションが原因、または想起されるような事件が起こると、判で捺したように「現実とフィクションの区別をしっかりつけろ」というフレーズがあちこちから出てくるが、一見正しいように思える(正しい部分もある)この言葉、けっこう罠だなと思っていて、なんとなれば、「自分はフィクションと現実の区別がしっかりついている」と信じている人ほどヤバくなったときに後戻りがしにくいと思うからだ。
人間は、現実とフィクションの境目を、きっちりと引くことなどできない。フィクションは現実を侵食し、現実はフィクションを侵食する。どんなに非現実的な内容でも、それは人間が作って人間が消費しているものなのだから、生身の人間に絶対関係してくるものだ(AIが作ったものでもそのプログラムを組んだのは人間である)。
そこを忘れて「現実とフィクションは別! ぜんぜん無関係に切り離せる!」と思いこんで胸を張って歩いていると、足元の穴に落ちることがある。私たちはフィクションで得た何気ない情報、感情、思想、しぐさなどを頭の中に堆積させている。それがフィクションと関係のない行動をするとき、考え事をするとき、影響を及ぼしてくることは確実にある。フィクションから受ける影響は、ポジティブなものや無害なもの(スポーツ漫画の影響で選手を目指すとか、駅弁の食べ順に影響を受けるとか)もあるけれど、当然ネガティブなものもある。間違った知識であったり、悪意のある偏見やステレオタイプであったり。それがフィクションの影響であることなど忘れているくらいに自然に、言葉や行動に出てきてしまうことがある。
だから私は年齢を重ねれば重ねるほど、自分の中のフィクションの蓄積が増えれば増えるほど、「自分は現実とフィクションの区別などつけられない。葉っぱをお金と思い込む可能性がある。気をつけられたし」と己に言い聞かせるのが肝心だと思うのだ。人はいいかげんで曖昧で、自分の見たいようにしかものを見ないものなので。
そしてこれは本稿のテーマにはあまり関係のない話なので恐縮なのですが、現在動画配信サービス・ディズニープラスで配信されている『スター・ウォーズ』のスピンオフ連続ドラマ『キャシアン・アンドー』が最高に面白いのでぜひ観てください。現在私はこのアンドーと同じくSWドラマ『マンダロリアン』を観るついでに生きているような状態で、心の半分は常に遥か昔の遠い銀河に飛んでいる。久しぶりに頭の中がそれのことばっかりみたいなハマり方をしていて、しかもそれが時間と金がいくらあっても網羅しきれないスター・ウォーズ世界の一端ということで、恐怖に震えている。でも面白すぎてやめられない。フィギュアとか買うのはかなり我慢してます。締め切りという現実から逃れる私をTIEファイターに乗って追いかけてくる各社編集さんの姿が目に浮かぶようだ。May The Force be with you……。
はじめに
1章 どうやって年をとればいいんだろう
エブリデイ惑いまくり/老いと大人/趣味と大人/運動と大人/食と大人/お酒と大人
2章 変わりたいと思っちゃいるけど
仕事と大人/休暇と大人/格好と大人/住まいと大人/お金と大人/フィクションと大人/おもしろと大人
3章 ひとりで生きる、誰かと生きる?
インターネットと大人/人付き合いと大人/協調性と大人/恋バナと大人/家事と大人/リレーションシップと大人/子供と大人
4章 そして人生はつづく
後悔と大人/怒りと大人/病と大人/終活と大人 親編/終活と大人 自分編
おわりに