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“女は自衛しろ”というならば――女性による反撃は正当か?

記事:明石書店

『“女は自衛しろ”というならば―女性による反撃は正当か?』(明石書店)
『“女は自衛しろ”というならば―女性による反撃は正当か?』(明石書店)

2025年になっても川崎ストーカー殺人が起こった

 本書『“女は自衛しろ”というならば』は、ジェンダーに基づく暴力・差別に武力で反撃した女性たちの実話を追ったルポルタージュです。第1章ではアメリカで自分をレイプした相手を射殺したブリタニー、第2章ではインドで女性だけの自警団を創設したアンゴーリ、第3章ではシリアで女性軍の兵士として戦うチーチェクの物語が綴られます。

 そのテーマの時点で、暴力・差別に暴力で返すなんて、暴力の連鎖を生むだけなんだからダメに決まってる!と結論づける人もいるでしょう。しかし、暴力という行為については批判的でも、なぜ彼女たちにはその選択肢しかなかったのか、彼女たちが生きさせられている社会はどのようなものなのか、その行動の背景を知ることは、たとえば痴漢を安全ピンで撃退するという反撃について過剰防衛がどうかと議論がある日本でも重要です。

 また、2025年春に、川崎市でストーカー被害を訴えていた女性の遺体遺棄事件が起きました。1999年の桶川ストーカー殺人事件を思い出した人も多いのではないでしょうか。四半世紀経ってもなお、女性は殺され続けている。家族からのDVもよく聞く話で、日本で痴漢は日常茶飯事です。

 警察に何度も相談をしても対応してもらえず、命を絶たれた女性たちがいます。また、直接的に殺されなくても、女性を狙った暴力の被害に遭った後に自殺した女性もいます。死にはしなくとも、被害に遭ったことで鬱やPTSDなどを患い、生きていくことが非常に苦しいものになってしまっている女性もいます。

 殺された人、被害に遭った人に同情する人は少なくないでしょう。でも、もしその被害者たちが反撃したら、世論はどうなるのでしょうか。必ずしも反撃が擁護されるとはかぎらないと感じます。でも私は、本書のなかで、レイプおよびDV被害に遭っても警察は助けてくれなかったという女性が語った言葉に、なんと答えればよいかわかりません。

どうすればよかったの? 殴られるだけ殴られて、結局あたしに死ねってこと?

第1章の主人公ブリタニー
第1章の主人公ブリタニー

 虐待経験に関連して有罪判決を受けた女性を支援する米The National Defense Center for Criminalized Survivorsの法務部長は本書のなかで、「(女性が)そもそも自衛せざるを得ない理由が、いまだに検討されないどころか、女性にとって不利なかたちで使用されているのです」と話しています。

 著者でジャーナリストのエリザベス・フロックは、自身もレイプ被害者で、相手に反撃しなかった後悔を抱えるなかで、本書をまとめたそうです。

彼女たちがとった行動は、結局のところ彼女たちを救ったのか、それとも逆に傷つけたのか。そしてその結果、制度に何らかの変化はあったのか。

「暴力」とはなにか

 まず、暴力が禁止されるべきなのは原則としても、「暴力」で想像される行為に偏りがありませんか。多くの人がパッと想像するのは「一時的な喧嘩」で「拳で殴る」などが多いのではないでしょうか。

 でも、女性が日常で被害に遭う暴力は、「同意なく体を触られる」「性的なことばを投げかけられる」とかの方が圧倒的に多いですよね。もしくは「彼氏など親しい男性に怒鳴られる」「ぶつかりおじさんに遭遇する」「ストーカーされる」とか。そしてそれは「継続性」「反復性」を伴うことも多いです。

 それらは暴力ですが、暴力だと認識していない人も多いし、一時的なものと反復性があるものとでは、いろいろな状況や影響が異なります。しかしそこに視点がいっていない社会であることは、問題ではないでしょうか。アメリカでレイプ犯を射殺したブリタニーの経験を追った第1章では、司法が「男性視点での危険度の基準」に従っていることが問題であると指摘されています。

 しかも日本ではネットを使えば、性暴力は犯罪であると示さないどころか、それを楽しんでいるアダルトマンガの広告がむやみやたらに出てくる、「レイプ」というキーワードで検索するとアダルトコンテンツが大量に出てくる。町を歩けば、未成年の少女を含む女性キャラクターを性的客体化した広告が街なかに貼られている。それらを見させられるのは暴力的ですし、そうしたコンテンツの中で楽しんでいる側として描かれる属性の人には、こうした行為が誰かに対する加害であるという認識すら芽生えづらいように感じます。

そもそも「自衛」って可能なのか?

 そして、ジェンダーに基づく暴力に遭った女性がよく言われるのが、だったら自衛すればよかったというようなもの。その発言には自衛が可能であるという前提がありますが、その点は疑問です。

 女性を狙った暴力は、女性に拒否権があると思っていない、女性を自分でコントロールしたい、攻撃してよいとされている女性という属性を攻撃してストレスを発散したい、といった「意志を持って行われる」わけですよね(加害者本人はその意志を言語化できていなくとも)。そういった意志を持った男が狙いを定めて行う犯罪に“遭わないようにする自衛”って、もう女性しかいない世界で生きていくしかなくないですか?

 でももちろん現実的に不可能です。日用品の買い物をするにも店員さんの性別は選べないし、企業なんて多くが男社会だし、知人の知人といった人間関係の広がりのなかで男性のみを避けて通るのは難しい。この世の男性全員に警戒して生きるのは疲れるし、警戒すると、「気にしすぎw」と言われたり、犯罪者でない自分を警戒するのはムカつくからさらに脅かしてやろうと、あるお笑い芸人のような行動を取る人もいたりする。

 犯罪をおかすなではなく、犯罪に遭うなと女性の行動ばかり制限されるのは不合理だし、結局なにをしても叩かれる。

第3章の主人公チーチェク
第3章の主人公チーチェク

自衛に反撃も含まれるのでは?

 そして、そもそも、自衛っていうものが指す行為のなかには反撃も入ってきませんか。自衛しろと言う人が想像しているのは、犯罪に“遭わないようにする”ことだと思いますが、『大辞泉』では「自分の力で自分を守ること」です。となると、一定数の男性が猛反発している、痴漢という被害に“遭った後”に犯人を撃退するための安全ピンによる反撃も自衛に入ると思いますが……。

 結局、そういった主張をする人の自衛は、“自分たちに歯向かってこない、自分たちの気分を害さない自衛”ってことですよね。自分たちにあまりに都合よい考え方ではないですか。

 また、暴力にはいろいろあると先述しましたが、さらに別の角度からの議論もあります。

 その暴力行為が起こる前に被害がないケースと、前に被害があるケースは、世間や法律からの受け止められ方は異なるでしょう。そして後者については、生き延びるための正当防衛か、復讐かの異なる暴力があり、さらに、反撃の対象は先に攻撃してきた加害者本人なのか、関係ない人を巻き込んだ無差別殺傷等(例えば虐待を受けていた人物が、街なかで無差別殺傷を起こすなどの事件)なのかでも、議論する点は変わるかと思います。

「反撃」を認めてほしいわけじゃない、しかし…

 そして、私は反撃という自衛の可否を議論のメインにはしたくありません。なぜなら、反撃をしなければいけないということは、その前に被害に遭うことは変わりないからです。まず、被害になんか遭いたくない。

 でもここで、2つの問題が浮かび上がってくる。1つめは、女性を狙った攻撃があまりに蔓延していて、普通に生きていたら被害に遭わないほうが難しいということ。2つめは、女性への加害が起こった時に、この社会は加害者に対して適切な対応をとる社会ではないということ。

 この前、ある人気女性YouTuberのライブ配信を見ていたら、元彼にガラスで腕を刺され、血まみれのまま警察に行ったのに、元彼は逮捕してもらえなかったと話されていました。ここまでの出来事でなくとも、友達にひとりもジェンダーに基づく暴力/嫌がらせに遭ったことがある人がいないという女性って、いるのでしょうか。日常的に起こりすぎていて、被害に遭ったことに自覚がない女性もいるくらいではないでしょうか。私たちが生きてる世界はあまりに歪んでる。

 第2章で登場するインドの女性だけの自警団グリーン・ギャングに相談および入会の問い合わせが殺到した時、女性たちの話には「明らかな共通点があった」そうです。それは、

警察も裁判所も村役会も政治家も、公正な裁きをしてくれなかったということだ。

第2章の主人公アンゴーリとグリーン・ギャング
第2章の主人公アンゴーリとグリーン・ギャング

 日本でも同じようなことは起こっています。警察や司法が性犯罪者に甘いことも、むしろ被害者は世間から苛烈なセカンドレイプを受けることさえあることも、私たちは知っています。犯人は逮捕すらされないことも多く、さらに、逮捕されても不起訴や示談になることも、刑罰が非常に軽いことも多いです。

 ドラマ『虎に翼』の脚本家で、本書の解説を執筆くださった吉田恵里香さんは、正当防衛以外の暴力には責任がともなうとしたうえで、しかし責任を問うのは、「暴力という手段に出ざるを得ない状況を作り出してしまった社会が変わってからじゃないとおかしいのではないだろうか」と疑問を呈しています。

 本書が映す女性たちは聖人ではなく、問題のある発言もします。彼女たちのすべてを無条件に肯定すべきと言いたいわけではありません。しかし、人間は社会の中で生きていて、その影響を受けます。

 本書に登場する女性たちはアメリカ、インド、シリアに住む女性たちですが、その物語や思いを聞けば、彼女たちは日本に住む自分たち、自分たちの周りにいる誰かでもおかしくないです。そんな彼女たちが反撃せざるをえなかったのはなぜなのか、その行為にいたるまでになにがあったのか、周囲の環境はどのようなものだったのか。

 とくに、参院選を経て人権が脅かされていることが明確となった今、社会を生きるすべての人が本書のテーマについて考えなければならないはずです。

文:柳澤友加里(明石書店)

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