ファシズムの長い影 マイケル・マン『ファシストたちの肖像』を読む
記事:白水社
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「世界史的な大事件や偉人は二度現れる」とするヘーゲルの歴史哲学の骨子に、マルクスは「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」という皮肉を付け加えた。だが、無数の人々がそのような事件に動員され、異常な指導者に追随する事態が再び現出すれば、それはなおも茶番と呼べるのだろうか。茶番が悲劇でない保証はどこにも存在しない。現代に生きる私たちが「ファシスト」について語るとき、暗にそれを、遠い過去の異常な出来事、あるいは異質な場所で噴出した「狂気の産物」として眺めているのかもしれない。その眼差しが、現代社会に潜在する構造的リスクを覆い隠しているとすれば、私たちは、その自己欺瞞にいかなる代償を支払うことになるのだろうか。
マイケル・マン『ファシストたちの肖像──社会的〈力〉と近代の危機』(白水社・2025年)は、その問いに真正面から応答する一冊である。マンは本書において、ムッソリーニやヒトラーといった特異な指導者に焦点を当てるのではなく、彼らを支えた名もなき活動家たち、選挙で支持を寄せた人々、日々の暮らしの中で追随した市民──いわば「普通のファシストたち」──に分析の軸を据える。ファシズムとは、狂信的な少数派の暴走ではなく、特定の歴史的・社会的条件の下で、多くの人々が能動的に関与した現象であった。これが、現代を代表する社会学者であるマンの分析の出発点である。
本書の特徴として第一に注目すべきは、イデオロギー(I)、経済(E)、軍事(M)、政治(P)という4つの社会的〈力〉の相互作用──マイケル・マン固有の分析枠組みであるIEMP図式──を理論的基盤としている点にある。ファシズムは、民主主義を否定する衝動の単なる噴出ではなく、社会的分断や不満を組織化し、暴力と排除を通じて新たな秩序を構築しようとする体系的な政治プロジェクトであった。それは、近代社会が内包する矛盾──とりわけ階層的緊張や制度的機能不全──が制度的臨界点において表面化した構造的な病理であった。こうした分析枠組みによって、マンの議論は、現代のファシズム論の中でも、他に比類のない理論的明晰さを備えている。
今日私たちの目の前にある排外主義、性差別主義、反知性主義、制度の空洞化といった現象は、それぞれが孤立して発生しているのではない。格差の拡大(E)、排他的ナショナリズムの台頭(I)、政治的制度への不信とポピュリズムの拡散(P)、そして暴力の正当化や懐古的軍事感覚の復活(M)といった要素が相互に影響し合い、社会全体を奈落へと引きずり込んでいく。マンのIEMP理論は、ファシズムの台頭を単一の要因に還元するのではなく、複数の〈力〉の連関からなる構造的現象として捉えることを可能にしている。
もっとも、原著が公刊された当時(2004年頃)の先進諸国では、自由民主主義の劣化や後退の危険が現在ほど広く語られていたわけではなかった。また、マンによれば、現代の先進社会では、かつてファシズムをファシズムたらしめたMの要素──特に準軍事的暴力の組織的動員──が欠けており、それゆえに、ファシズムが文字通り再来するための決定的条件を欠いている。それにもかかわらず、この理論的枠組みは、過去の事象を分析するための道具に留まらず、今日の民主主義を取り巻く複合的な危機──格差と排外主義、政治的不信と暴力の許容といった要素の絡まり合い──を読み解くための有効な羅針盤となるのである。
第二の特徴は、ファシズムを少数の活動家の周りに結集した中核的支持層の集合体として捉える視点にある。マンは、ムッソリーニやヒトラーのカリスマ性や政策決定の特異性ではなく、それを担った膨大な「名もなき者たち」の役割を重視する。すなわち、ファシズムとは特定の指導者個人の狂気ではなく、社会の中で組織され、文化的に許容された動員形態であったというのである。とりわけ若い男性を運動に惹きつけたのは、社会の軍事化が進行した第一次世界大戦直後の世界の中で、血気盛んな彼らを取り込み、強烈な同志意識を育む組織──特に準軍事的組織──の存在であった。
現代における極右現象をめぐってもこの洞察は有用である。メディア空間で増幅される、他者への集団的憎悪の投射を伴う言説は、特定の扇動者によって生み出されているだけではない。それを共有し、文化的に共鳴する匿名の多数によって日々再生産され、拡散されていく。その過程で、「敵」としての対象は固定されることなく拡張され、やがて宗教や言語を異にする他者を超えて、より曖昧で恣意的に定義された〈異質なる存在〉へと向かう。こうした憎悪の形は、人類史に繰り返し現れてきた暴力の系譜に連なるものであり、必ずしも悪名高い民族的浄化に限られない。そして、政治的な敵と見なす者を徹底的に排除しようとする「政治的浄化」こそが、今日の国民国家に潜む「純粋性」への欲望と、あらゆる対立の無化を是とする「超越性」への幻想とを支えているのではないか。
マンは本書の冒頭で、ファシストたちの言動や思考を異常者の狂気として嘲笑するのではなく、それがいかなる制度的文脈で正当化され、どのような社会的条件の下で許容・支持されたのかを真剣に捉えるべきだと述べている。ファシズムは、社会の周縁に追いやられた者たちの暴発を唯一の動力源としていたのではなく、既存秩序の「中核」の辺縁部に位置する人々によって支えられた。マンの分析は、彼らが暴力への欲望からではなく、「秩序回復」や「国家再建」への期待、あるいは既存体制への不満を通じてファシズムに惹きつけられていった様相を明らかにし、日常と暴力、常識と排除の間にある危うい連続性を照射する。
第三に、マンはファシズムを、右翼的権威主義勢力の中でも最も動員的かつ暴力的な「急進派」と位置づける。ファシストは、既存の保守派──特に君主制、官僚制、軍部、教会──との複雑な関係性の中で台頭していく。ファシズムは、彼らにとって代替的手段として「利用」されることもあれば、逆に旧体制側を戦略的に取り込みつつ自己の優位を築いていく場合もある。マンは、この両義的で流動的な協調関係がどのように制度秩序の転覆へとつながっていったのかを、実証的に分析している。中でもスペインの事例は、ファシストを重要な核とする権威主義的右派のアマルガムが形成されていく様を詳細に跡づける章として、本書の中でもとりわけ注目に値する。
現代においても、極右勢力の台頭は突如として生じるのではない。既存の保守エリートが容認し、場合によっては戦略的に接近することで、その進出に現実的な足場が与えられる。民主主義的制度は本来、権威主義的統治への防波堤であるはずだが、時にその制度自体が、ルールの恣意的運用や例外措置の濫用によって、むしろ権威主義の補完装置へと転化することがある。形式的な制度の存続が、実質的な自由や多様性を保証するとは限らないのである。制度の名の下に欲望が動員され、秩序の維持の名目で暴力が正当化される。そうした交錯点にこそ、今日の民主主義が直面する最大の危機が潜んでいる。
マン自身は、狭義のファシズムを第一次世界大戦後のヨーロッパにおける、地域限定的かつ歴史的な現象として捉えることで、その分析の精度と理論的厳密さを高めようとしており、同時に、学問的知見を安易に教訓話に転化することに慎重であろうとする姿勢を示している。しかし本書の抑制的な調子からむしろ浮かび上がるのは、近代社会に孕まれた構造的病理を体現するファシズムの底知れぬ恐怖である。制度の名において排除が行われ、暴力が正当化され、同質性の強要によって共同体が形成される──そうした透明な悪意に向かう衝動は、「後期近代」あるいは「第二の近代」と呼ばれる時代の地層の中に、今なお脈動している。その徴候は私たちの足元に浸潤し、励起する瞬間を静かに待ち続けているように見える。
『ファシストたちの肖像』が歴史社会学という学問分野における傑出した成果であることは、疑いを容れない。だが本書の知見はアカデミア内部で消費される知的玩具であることを超えて、現代の民主主義が抱える脆弱性を照射する鏡としても有効であり、私たちが今置かれている政治的・歴史的状況を読み直すための座標軸ともなり得る。「ファシスト」とは誰か──この問いは、特定の他者に向けた糾弾(感嘆符付きの「ファシスト!」)としてではなく、私たち自身が依拠する制度や秩序、そしてそこに潜む排除と暴力の論理をめぐって、常に反芻されなければならない。本書は、今なおファシズムの長い影の下にある私たちに、その呪縛を断ち切るための確かな手がかりを与えてくれるだろう。
横田正顕[東北大学大学院法学研究科教授]
【Michael Mann: Interviews】
【目次】
日本語版への序文
序
第一章 ファシズム運動の社会学
第二章 戦間期の権威主義とファシズムの台頭を説明する
第三章 イタリア――元祖ファシスト
第四章 ナチズム
第五章 ナチズムに共鳴した人々
第六章 オーストロ=ファシズム、オーストリアのナチ党
第七章 ハンガリーの権威主義諸派
第八章 ルーマニアの権威主義諸派
第九章 スペインの権威主義諸派
第十章 結論――ファシストの生死を問う
監訳者あとがき
解説(平田武)
付表
註
文献
索引マイケル・マン『ファシストたちの肖像──社会的〈力〉と近代の危機』目次