読書猿が読む『ストイシズム』――混迷の時代に「ストア哲学」は人生の羅針盤となるか?
記事:白揚社
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SNSが怒りを増幅し、ニュースが不安を点滴する21世紀――私たちは、外部から揺さぶられないための何かを探している。その候補として古代から召喚されたのがストア派の哲学だ。
かつてヘーゲルに「歴史を停滞させる抽象的自由」と酷評されたこの学派は、1981年、フランスの哲学史家ピエール・アドが『古代哲学とは何か』で注目し、〈哲学はスピリチュアル・エクササイズ(魂の筋トレ)である〉と、ストア派のその実践性を高く評価したことで息を吹き返す。続く81年から82年にかけて、ミシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランス講義で〈自己への配慮(主体を形づくる実践)〉を展開する中でストア派を取り上げた。この講義は1984年に『性の歴史III――自己への配慮』として結実する。
ストア派再評価の伏流は、このように何年も前から静かに流れていたが、パンデミックが引き金となり一気に地表に吹き出したかに見える。「自分の外部は制御できない」という現実を突きつけられ、人々は内面の有り様とその取り扱いとを再考せざるを得なくなった。ストア派の書物が、例えばイギリスでセネカの書簡集が、ドイツやベルギーでマルクス・アウレリウスの『自省録』が、ベストセラーとなったのは偶然ではない。
ストア派の復興のための動きは、アドとフーコー以後にも着々と積み重ねられていた。
2012年、英国エクセター大学に集った研究者と臨床家たちが、古代ストア派の思想を現代に応用するオンライン実践企画「Stoic Week」を立ち上げた。これを母体に、非営利団体モダン・ストイシズム(Modern Stoicism)が設立される。彼らはストア派哲学と認知行動療法の接点を探りながら、翌2013年には年次大会「Stoicon」を開始。COVID-19パンデミックを機に、2020年以降グローバルなオンライン開催へと進化したこの大会は、哲学と実践の橋渡しとして世界の関心を集めるようになった。復興されたストア派は、かつての全盛期と同様、書斎や講義室の外へと飛び出し、広く市民社会の中へと根を下ろし始めている。
この潮流に先行したのが、本書の著者、米国の哲学教授ウィリアム・B・アーヴァインである。2008年に刊行された本邦訳書の原著『A Guide to the Good Life』で、彼は研究者としてストア派の学説を解説する代わりに、そうするのがストア派本来のあり方だとばかりに「誤った生き方(misliving)を避けよ」と人生における実践を説いた。徳(アレテー)を頂点とする古典的枠組みをひっくり返し、むしろ心の平静(トランクイリティ)を前面に押し出し、人生の羅針盤として据え直す。加えて、ストア派の知恵を人生の現場ですぐに活用できるよう、具体的な手法として提案することにまで踏み込む。ネガティブ・ビジュアライゼーション(最悪を想定する訓練)、コントロールの二分法(制御可否の峻別)、意図的自己否定(快楽を断ち欲望の閾値を下げる節制)という、三つの技法は読了直後から試せるほど平明であり、決して手放せぬほど効果的だ。
しかし、容易さは疑いも招く。NPOモダン・ストイシズムの創設メンバーであり、認知行動療法(CBT)の臨床家であるドナルド・J・ロバートソンは、アーヴァインが説くのは「Stoicism lite(軽量版ストア主義)」ではないか、という。Stoic Week の発案者の一人マッシモ・ピリウーチも、アーヴァインの主張にいくつか苦言を呈している。ストア派の古典に忠実であろうとする彼らに対し、アーヴァインは確かに、理論の整合性を尊ぶよりも実践を支援することに力を注ぐ。そのスタンスが共感を呼び、この古代哲学に新たな読者を招いた。本書は20言語以上に翻訳され、モダン・ストイシズムの公式サイトでも推奨図書となっている。さらに2020年にはアーヴァインは他ならぬ「Stoicon」で基調演説を務めた。外部の独立派がストア派ルネサンスの主流に認められ、求められたのである。
アーヴァインの筆致は乾いている。緻密な脚注よりも武骨なジョークと実験談で読者の警戒心を溶かすが、それらの言葉の背後にはセネカやエピクテトスの原文を何度も精読し、繰り返し線を引いた跡が見える。学術を削ぎ落としたのではない、骨ごと煮込んでその出汁を抽出したのだ。
とはいえ、疑問も残る。ソーシャルメディアが富・名声・承認を秒単位で計測・配信するこの世界で、われわれは本当に「無関心(アパテイア)」を貫けるのか。仕事と生活の境界が溶けたリモート時代に、コントロールの二分法は機能しうるのか。
アーヴァインは本書の中で結論を与えるよりも、読者に〈実践→反省→再設計〉のループを委ねる。哲学は人生の答えではなく、〈生きる〉という航海の中で位置を知り、航路を修正し続けるための航海計器(navigational instrument)であるのだ。
本書を閉じて最初の数分、世界は少し静かになる。この静寂は逃避ではない。世界と再び対峙するための再装填(リロード)だ。ストア派の再起動はここから、私やあなたの一日から始まる。