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「独学大全」読書猿さんインタビュー 学ぶとは、生い立ちや境遇から自由になる最後の砦

文:篠原諄也 絵:塩川いづみ

何度も失敗してつまずいた蓄積

――正体不明で博覧強記の読書猿さんですが、一体何者なのでしょう?

 一応、実在します(笑)。博覧強記ではないですよ。そんなにたくさん読む時間があるわけでもないですし。普通の勤め人なので本を読むのは、ほとんど通勤電車の中です。原稿を書くのも電車の中ですね。でもまあ、疲れて居眠りしてしまうこともあったり(笑)。

――もともと読書が苦手だったそうですね。

 本を読むのはずっと苦手でした。続けて読もうとしても、20分くらいしか続かない。飽きてしまうんです。いろいろ工夫はしたんですよ。一時は10冊くらいカバンに入れて、飽きたら次の本を読む、という感じでやってました。これだと、1冊の本をずっと読み続けられないんで、読み終えるのに5年くらいかかってしまうんですけど。

速読の技法のひとつ「限読」。読む本を決めて、費やす時間をあらかじめ設定する。(『独学大全』より)

――どのように克服しましたか?

 いや、まだ克服していないんですよ。本を読むのはまだまだ速くないですし。それに書くのも苦手なんです。本当に血を吐く思いで七転八倒しながら、読んだり書いたりしています。そういう意味では、独学の達人ではないのかもしれません(笑)。

――そもそも今回、独学をテーマに執筆したのはなぜでしょう?

 1作目の『アイデア大全』(2017年)が出た直後に、編集者から「独学」をテーマにした本のオファーがあったんです。すぐに構成は思い浮かんで、30分ぐらいで目次を書き上げました。完成した書籍の目次とほとんど変わらないものです。それくらい自分の中で熟していたんだと思います。ただ、こうした勉強本は、成功した学歴エリートや有名人が書くイメージがあったので、もっと偉くならないと書かせてもらえないものと思っていました。

――苦手だからこそ、様々な技法を構築されたそうですね。

「行動記録表」。日々の行動の実態を記録し、予定と比較することで、行動を改善していく。(『独学大全』より)

 先ほども言ったように、読むのも書くのも苦手だったので、始めてもすぐに挫折して、途中でやめてしまう。この繰り返しでした。でも記録に取っていたんですよ。「こんな失敗をした」「こうするとちょっとはうまくいく」みたいな。後でそういう記録を読み返すと、結構面白いことに気づいて、そうすることでノウハウが次第に固まっていきました。この本の執筆期間は3年ほどなんですけど、ここに書いてあることの開発期間というと、多分若い頃からの何十年かかかっていると思います。

――意欲のメンテナンスのための「学びの動機付けマップ」、すべての行動を記録して反省する「行動記録表」、事典・書誌・雑誌(論文)記事の調査方法……。どれも表の項目や時間配分までかなり具体的に書かれていました。

 具体的に書いているのは、ブログで発信していた影響があると思います。ブログでは誰もが繰り返し再現できるようなレシピとして書きたいと思っているんです。例えばどんな表を、どんな手順で作るのか、「この通りにできればこの味ができます」というところまで煮詰めないと人に渡せない。あと、数年後の自分はほとんど他人だと思うので、自分があとから読んでも分かるようにしようと思うと、他人が再現できるレベルまで作り込まないといけないんですね。

「学びの動機付けマップ」。学びのきっかけとなった出来事を振り返ることで、モチベーションを整理しキープする。(『独学大全』より)

独学は「孤学」ではない

――読書猿さんにとって、独学の醍醐味とは何でしょうか?

 醍醐味というより、独学は学習の最後の砦、セーフティネットのようなものだと思っています。どれだけ学ぶための機会や資源が限られていても、たとえ奪われても、最後に独学という希望が残っている。独学があるから「あなたがあきらめないかぎり、知はあなたを見放さない」と言い切れる。

――具体的にはどういうことですか?

 たとえば、学校に行きたかったけれど行けなかった、知りたいことがある、身につけたいことがあるんだけど、学ぶための時間がない、習うためのお金がない、教えてくれる人がいない。そういう場合にも、最後に独学が残ってるんです。

 もうひとつ言うなら、研究者がある分野を極めようと研究の山をどんどん登っていくと、空気の薄い知識の「高地」にたどり着く。もう自分の先にも周囲にも誰もいない。そこでは誰もが自らを師として独学せざるをえない。

 つまり学習機会を奪われた人も、知の最先端に立つ研究者も、どちらも「独学者」なんです。そうした意味では独学は、知識に向かおうとする限り、どんな環境に置かれても、どんな段階・水準にあっても、行うことになる、知的営為のミニマムセットなんじゃないかな、と思っています。

何かを調べたい時には、事典、書誌、教科書、書籍、雑誌記事(論文)が5つの基本ツールとのこと。(『独学大全』より)

――「独学は孤学ではない」というのが、何度も出てくるキーワードでした。独学は「孤独に人とつながらずに学ぶこと」を意味しないとのことでした。

 「独学は孤学ではない」というのは、いろんな意味があります。ひとつは「同じ本を読む人は遠くにいる」という言葉があるんですけど。出版後にSNSで毎日いろんな人から『独学大全』の感想や、自身の独学についての話がアップされています。今独学している人のそばには独学者はいないと思うかもしれない。でも実はお互いに知る機会がないだけで、この世界にはたくさんいるということが可視化されたんだと思います。

 さらに空間的だけでなく、時間的に離れている場合もあります。そもそも自分が今学ぼうとしている知識は、何人もの先人が知的営為を重ねてきた成果です。学ぶとはそれを「巨人の肩」として、その上に乗ること、ゼロから始めるのでなく先人が残してくれた知的遺産から自分の知的営為を始めることです。そういう意味では直接に会わなくとも、間接的にすごい人たちとつながり合うことが学ぶことなんだと思っています。

 最後にもうひとつ。独学はいろんな人の手を借りていいし、みんなで集まって本を読んでもいいし、誰かに教えを請うたっていいんですよね。自分の学習環境を自由にデザインできるのが独学のいいところなので。独学者とは誰にも頼らない人じゃない。むしろいろんな人に広く薄く依存することこそ、自立していることだと思うんです。そういう意味でも孤学だと思ってしまうと、独学の良いところを見失ってしまうんじゃないかなと思います。

仏文学者・鈴木暁さんが開発した「鈴木式6分割ノート」。語学の学習などに効果的。(『独学大全』より)

人文知の忘れられたルーツを取り戻す

――教養とは「運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること」とされていました。どういうことでしょう?

 事実として、遺伝子や生育環境は、その人の考え方や行動、能力などを通じて、その後の人生にとても大きな影響を与えます。「子どもは親を選べない」「親ガチャ」という言葉もありますよね。そしてまた、その場の環境に左右されてしまうのは生き物としてのヒトにとって、逃れられない事実としてある。

 ただ、それに抗おうとする思想や人もまた、古くから存在しました。たとえば古代ギリシャでプラトンと同時代人だったイソクラテスという弁論・修辞家がいます。当時の常識では、貴族しか徳(アレテーαρετη)を持っていない、だから貴族でないと政治に携わることができないという考えが主流でした。でもそこで「徳は教えることも、学ぶこともできるんだ」と言ったんです。生まれ育ちによって決定されるんじゃなく、自分で学習することで獲得することができるんだと。

 僕らはイソクラテスの時代よりは、遺伝子や生育環境が人間に与える影響がどのようなものかを知っています。人間の続けられないという弱点についても、原因を含めて知っている。ヒトは知ることで、自分の持つ弱点や課せられた制約をいくらか緩和することができるし、実際そうしてきた。弱点や制約に対抗する知恵や工夫を、僕らは学ぶことで手にすることができる。こうして知識はヒトを自由にする。『独学大全』に集めたのも、そうした運命に抗うために、先人が残してくれた工夫や知恵です。

『独学大全』より

――読書猿さんは特に関心のある分野はありますか?

 分野と呼べるかどうか分かりませんが、厳密知(エピステーメー)に対する実践知(ドグサ)に関心があります。

――……といいますと?

まず、厳密知(エピステーメー)とは、プラトンの立場でした。彼はピタゴラスに大きな影響を受けていましたが、例えばピタゴラスの定理では直角三角形の三辺の長さの関係性が式で表されています。これはどんな時代や文化であっても、普遍的に正しく必然的なものです。こういう数学の定理のような、普遍妥当する知識が厳密知(エピステーメー)であり、哲学というのはこれを求めるべきなんだ、というのがプラトンの立場です。普遍妥当な知を求めるという意味では、今の自然科学などにもつながる系譜になります。

 一方でそうじゃない知もある。厳密じゃない知の方が大切だと考えたのが、さっきも出てきたイソクラテスでした。イソクラテスは、プラトンの厳密知(エピステーメー)に対して、俺たちが求めるのは実践知(ドグサ)だと言うんです。確かに世の中の普遍的な法則は存在するし、そうしたものの知識は大切だ。でもそれは幾何学などの世界だけで、成立する分野は極々限られているじゃないか、と。そして実際に問題に向き合った時に、厳密知(エピステーメー)では絶対に間に合わないと言うんです。

――現代の政治や社会にも通じるお話ですね。

 厳密でいつの時代も正しいような知識が得られなくても、その場所で判断をくださなければいけないことがあります。絶対正しいかは分からずとも、よりましなほうを選ぶという知があって、ほとんどの人間が生きている中では、むしろそのほうが重要なんじゃないかとイソクラテスは考えました。彼がモデルにしていたのは、ソロンなどの賢人であり政治家であるような人物でした。政治が目指すところは、いつの時代にも正しいとは限らないけれど、その時代の限定された状況で、できるだけよい問題解決をすることです。

 法学は英語で「jurisprudence」とされていますが、ラテン語・ローマ法におけるiuris prudentia(法の賢慮)という表現に由来しています。実践知=プロネーシス(賢慮)という言葉からきているんです。法学というのは、実践知の流れを汲んだ学問なんです。法律はいつの時代でも必然的に正しいわけではない。ただ、裁判や法律の議論で法律家が適当なことを言っているのではなくて、その社会でその時代において、できるだけよい納得のできる答えを探そうと、一般的なルールと証拠に基づいて議論し合って、合意を求めていく。

――読書猿さんは非常に幅広い知識をお持ちですが、ある一つの分野だけでなく、横断的に学ぶことの魅力とも言えそうですね。

 本来は人文学というのは、そういう実践知の流れから出てきたものなんですよ。イタリア・ルネサンスの人文主義の担い手は、書記官だったり行政長官だったり、そういう実務家だったんです。彼らは、古代ローマの政治家で哲学者だったキケロが大好きで、文章のお手本にしたり、弁論の技を学んだりした。そこで培った人文知でもって、ヨーロッパ中と情報を交換し合ったり、諸外国と交渉したりして、国を守ったり栄えさせたりした。今の世の中では人文学って凄く役に立たない学問だとされているじゃないですか。でも本当は違うんです。実践知の系譜に連なる学問なんです。

 僕は、人文学が本来実践的であったことを思い出してもらいたいんです。歴史的にそうだったというだけじゃなくて、今この時代にも人文知で蓄積されてきた知見や技術を使うことで、役に立つ本を作ることができることを証明したいな、と。最初の本『アイデア大全』もビジネス書とされましたが、人文書なんだと言い張りました。というのも、素材の集め方やまとめ方は、そういう人文知の知見や技術によるものだからです。人文知のルーツが忘れられているなら、それを掘り起こして、その本来の力を取り戻したいと思っているんです。