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読書猿さん「ゼロからの読書教室」インタビュー 「これは本当の読書じゃない」という考え方が読書を狭くする

絵:北澤平祐

Books can wait(本は待ってくれる)

――読書猿さんは「読書が苦手だ」と本書で書いていましたが、どのような時にそう感じますか。

 どんな本を読んでいる時にもそう感じます。特に興味を持って読みはじめて、実際に無茶苦茶面白い時が、とりわけそう思います。読書家はそんな場合、寝食を忘れて読み耽ると思うんですよ(笑)。私は20分で息継ぎをしたくなる。すごくつまらない本ならまだしも、これは「当たりだ!」と思うような本でもそうなんです。電車の中など細切れの時間で読んでいることも関係しているかもしれませんが。

 そんな時は「ああ、自分は心底、読書に向いていないんだ」と思います。以前、ある読書家の方を「読書に愛されている方だ」という表現をしたことがあるんですけど、それで言うと、僕は読書に全然愛されていない(笑)。でもそういう人が書く読書論があってもいいんじゃないかと思ったんです。

――本書では読書に苦手意識を感じる人に向けたアドバイスがたくさん紹介されていました。まず、どのようなことを伝えたいですか。

「Books can wait(本は待ってくれる)」ですね。今は読めなくても、力不足でも時間がなくても、焦らなくていい。人は老いるし立ち去りますが、本は変わらない。この言葉はいろんな方が紹介してますが、エルンスト・ルビッチ監督の「天国は待ってくれる」(Heaven Can Wait)という昔の映画のタイトルを思い出します。いい邦題ですよね。

 人間はどんどん変わっていきます。年を取るし、記憶力も弱くなっていく。一方で、本は変わらない。だから生きている限りは、また手に取ることがあるかもしれない。何度でも出会い直すことができるんです。ある時は難しくて歯が立たなかった本でも、何年か経ったら読めるようになることがあります。それは別にトレーニングを積んだり、勉強をしたりしたからじゃなくて、ただ単に時間が経過したというだけで理解できることがあるんです。年を取ったからこそ身にしみてぐっとくる箇所があったり、深いところで感じ入ることができたりする。人間のほうは読むことを諦めることがあるかもしれないけれど、書物は人を見捨てない。じっと私たちを待ってくれるんです。

――本がなかなか読めない時にそう考えると、少し気が楽になりそうです。

「私が一冊の本を読む」という単独の関係だけを考えるのではなく、本の総体というか、書物のエコシステムを考えるといいと思っています。生物は周りに他の生物がいて、生態系があるからこそ、生きていくことができますね。同じように、一冊の本の背後には必ず無数の本があるんです。世にある書物のほとんどを私は読むことができないけれど、そうした本があってこそ、今読んでいるこの一冊は生まれてくる。そして私が読めない無数の本は他の人たちが読んでくれているんです。また自分一人がちょっと本から離れる時期があっても、他の誰かが本を読んでいて、本の森が枯れないように支えている。逆に言えば、自分が本を読んでいる時も、他の誰かが本を手に取る可能性をほんの少しだけ高めている。一見孤独に見える読書は、そうやって本の森全体を少しずつでも支える行為なんです。

本によって読み手が作り変えられていく

――そもそも読書とはどのような営みだと考えていますか。

 本を情報のコンテナのようにとらえて、読書はその情報をもれなく自分の脳にインプットすることだと考えられがちです。でも、読書はそんな一方通行のものではありません。読むためには自分の中にある知識や経験、その他いろんなものを差し出して、迎えに行く必要があります。まず、これまで学んで身につけた語彙や文法を活用しなきゃならないし、個人的な経験や記憶だって差し出さないと文章は理解できない。差し出したものの一部は書物に否定され修正されるかもしれない。そんな双方向のやり取りを通じて、読み手が作り変えられていくことが、本を読むことなんだと思います。

 実は我々の経験自体、外界をただ取り込むのではなく、もともと持っていた思い込みや仮説が、行動を通じて作り変えられていくことなんです。つまり外から内への一方向ではなく、内と外との往復的なやり取りによる、修正の繰り返しなんですよ。では直接体験と読書はどこが違うのか。体験は一回きりなので、後は移ろいやすい記憶に頼るしかない。一方で読書は、書物という変わらないテキストを頼りに何度も読むことができます。経験の本質が修正だとしたら、読書は好きなだけ何度でも繰り返せる。そこが強みなのかもしれません。

 そもそも書物自体、著者だけでなく、何人もの人が関わる修正の繰り返しによって生まれてきます。そうして生まれた本には、色んな人に読まれたり論じられたりする中で評価され批判されて、社会レベルの修正も入ります。本を読むことは、そうした何重にもなった修正のループに、読み手が参加することなんです。そこに直接体験にはない豊かさや楽しさが生まれます。部屋の中で一人で本を読んでいる時でさえ、我々は孤独ではない。それは読むことが、個人レベルから社会レベルにまで何重にも重なったループへの参加であるからです。

――「書物には何度読んでも解き明かせない謎がある」という本書の一節も、とても印象に残りました。

 読むことがただ、書物に記された情報を頭にインプットすることであるなら、100%の理解もありうるかもしれませんね。劣化しないコピーみたいなものです。しかし読むことは、ただの情報の移転ではありません。そして文章は、そうした転移できる情報以外のものも書くことができる。これは驚くべきことです。 

 漱石は『こころ』という小説にたくさんの謎を盛り込みました。そのいくつかは「私」を惹きよせ行動させるもの、あるいは読者を惹きつけ物語を進めていくものですが、解き明かされない謎はいくつも残ります。たとえば「私」と「先生」の間で共有されず解消されない世代と時代感覚の差。それは漱石や鴎外のような世代と、芥川竜之介たちの若い世代との、乃木大将の殉死を巡る捉え方のギャップでもある。ギャップがあることはわかっても、その理解のギャップは埋められない、そうした形で残る謎もある。これこそ『こころ』のメインモチーフかもしれません。

 先ほどお話ししたように読書の修正ループは、個人レベルだけでなく社会レベルにまで広がるものです。だからこそ『こころ』のように、世代差や歴史的文脈を巻き込みながら、それらがはらむ「埋め切れないギャップ」が“謎”として残り、次の読みをいざなう。そして次の読みのループがもう一度回りだす。こうして読むたびに新たな問いや気づきをもたらしてくれるんです。まさに「解き明かせない謎」こそが、読書を何度でも豊かにする契機になるのかもしれませんね。

固く考えず、読書を楽しく自由に

――本書を読んでいると、本の読み方は自由でいいんだと思わされました。例えば、自分が立ち読みや拾い読みをしている時、無意識にこれはちゃんとした読書じゃないと思っています。でもそれも一つの読書のあり方なんですね。

「これは本当の読書じゃない」という考え方が、実は読書を狭くしてしまっていると思います。本当の読書というのがどこかにあって、それ以外は「読んだとは言えない」と、どんどん否定していくと、読書の自由さや可能性は失われていくし、何より本を読むこと自体が嫌いになってしまうでしょう。たとえば「マンガを読んでも読書とは言えない」という考え方。その前は小説がそう言われました。でも、どんな経験もかけがえない経験であるように、ウソの読書なんてないんです。「これは本当の読書か?」だなんて考えず、好きなときに好きなものを読むことを肯定した方が、読書はずっと楽しく自由になるんじゃないでしょうか。