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【必読の地政学教科書】80年前の英インド政庁の議論から現代のグレート・ゲームの未来を読む

記事:明石書店

『グレート・ゲームの未来――英領インドとユーラシアの戦略地政学』(明石書店)
『グレート・ゲームの未来――英領インドとユーラシアの戦略地政学』(明石書店)

カロウによる「七つの戦略域」
カロウによる「七つの戦略域」

『グレート・ゲームの未来』は歴史の記録に留まらず、現代に通用する戦略的思考と地政学のエッセンスを凝縮した「生きた地政学の教科書」である。本書は、国際情勢の未来を見通す思考とは何かを問い、戦略研究、国際政治、そして安全保障に関心を持つ全ての人々にとって興味深い視点を提供するものである。

迫りくる「力の真空状態」への対応は如何に?

 本書の舞台は、イギリスのインド統治の最末期である。第2次世界大戦中に、戦後のインドの独立が確実になってきたが、イギリス本国は継戦努力で手一杯な状況で、インドの独立とイギリスの撤退によって生じるアジアの「力の真空状態」の問題を検討する余力は全くなかったのであった。

 この事態を憂慮した英インド政庁は、本書の主人公である外務長官サー・オラフ・カロウを筆頭に、行政官、軍人、法律、経済専門家、地域専門家など多様な人材が参加する「総督の研究グループ」を立ち上げ、極秘裏に、インド独立後の地域の安全保障戦略について、詳細な考察と分析を始めたのである。

世界の動向を俯瞰する:「七つの戦略域」

 研究グループの議論の核にあったのは、世界を「七つの戦略域」に分割して捉えるという、カロウをはじめ当時の大英帝国の政治家・行政官たちに共有されていた世界の見方である(冒頭の地図参照)。この戦略域は物理的な地理的条件だけでなく、政治的な条件にもある程度左右される、勢力圏やパワーのまとまりを示す考え方である。

 この「七つの戦略域」では、二つの戦略域が近接・交錯している地域が、パワーの競合が激しく、紛争が起きやすい地域のように見える。しかも、戦略域を区切る線は、国境線とは違って、情勢に応じて柔軟に伸縮するというものだ。中東地域は、インド洋戦略域を含む欧州、内陸、アフリカといった四つの戦略域が重なり合う場所であり、そのため、この地域は常に衝突する危険性を孕んでいるとされた(楕円の破線部)。この地図で見ると、ウクライナは、欧州戦略域と内陸戦略域の狭間に位置していることがわかる。

研究グループはインド防衛戦略をどのように考えたのか?

 インドの防衛戦略において、特に彼らが注視したのは、ユーラシア大陸の内陸戦略域に位置するランドパワー(ロシア・中国)と、シーパワー(インド洋戦略域)の相剋であった。

 カロウらの議論によって導き出されたのは、インドの周囲に二重に設けられた「リング・フェンス」という従来からのインドの防衛システムを強化することであった。外側のリング・フェンスには、ビルマ(現・ミャンマー)、チベット、アフガニスタン、イランがあり、内側のリング・フェンスには、ナガランド、アッサムなどのインド東北部の少数民族地域、ネパール、ブータン、パシュトゥーンの部族地域(現在のアフガニスタン・パキスタン国境地帯)やバローチスターンがある。

 これらはフェンスといっても、建築物でも、軍事的なバリケードでもない。それは視覚できない生け垣であり塀であり、誰でもいつでも往来ができるものである。このフェンス内では、軍事的のみならず、経済的、文化的なものを含めたパワーの競争に勝利することが、カロウらの戦略の要諦である。

 この戦略には、二重のリング・フェンスにおける敵対勢力の動向を察知するための、高度なインテリジェンスの蓄積が不可欠であった。カロウたちの議論を支えたのは、インド政庁の対外関係省から各地に派遣されたエリートたちによる、現地でのネットワーク構築や情報収集活動、歴史、民族、社会に対する深い洞察と経験の蓄積であった。

80年前の議論が現代でも生きる理由

 カロウらは、第2次世界大戦時には、内紛と日本との戦争で弱体化していた中国が、将来的に大国として復活し、帝国主義的な行動を取ることを見逃していなかった。彼らは、インドや東南アジアに至る広範囲な地域への中国の脅威を予想し、中国は彼らが書いたシナリオをなぞるようにして影響力を拡大してきた。彼らが議論で焦点とした脅威は、まさにその後の歴史で現実となったのである。ソ連のアフガニスタン侵攻しかりである。また、彼らの防衛戦略の本質は、冷戦期の米国の戦略や、現代の自由で開かれたインド太平洋にも通じるものがある。

 英インド政庁の議論が現代に有用であるのは、当時の戦略家たちが、どうやって正確な未来図を描くことができたのか、その思考方法である。彼らは、帝国やイデオロギーといった時代とともに移り変わるものよりも、「不変の地形こそがこのゲームのルールを決める」と信じ、政治・軍事のみならず、歴史、民族、経済、社会、文化などを含めた自由闊達な議論によって、未来を予測したのである。

 本書では、防衛戦略としてのインドの周囲の二重のリング・フェンスにおけるインテリジェンスや洞察が余すことなく紹介されるが、これらは地政学の言うハートランドとリムランドのすき間や入り口における「暗闘」を具体的に示すもので非常に興味深い。こうした「暗闘」も、当時から80年経った今でもまったく変わらず、現代でもウクライナ、中東、アフガニスタン・インド・パキスタンなどで熾烈に行われている。地政学を理論だけではなく、現場の行政官・実務家ならではの切り口で語ることは本書の大きな魅力でもある。

 ランドパワーとシーパワーの覇権争いは、形を変えながらも続いており、カロウら研究グループの思考法は、現代の国際情勢、特に米中対立やロシアの動向といったグローバルなパワーの競合や、中東情勢やインド・パキスタン情勢などの地域情勢を分析するためにも未だ有効であろう。

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