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あの大ベストセラー小説が、韓国で翻訳出版されるまで――クォン・ナミ『面倒だけど、幸せになってみようか 日本文学翻訳家の日常』

記事:平凡社

ソウル・江南にあるピョルマダン図書館 Photo by Tobias Reich on Unsplash
ソウル・江南にあるピョルマダン図書館 Photo by Tobias Reich on Unsplash

クォン・ナミ『面倒だけど、幸せになってみようか 日本文学翻訳家の日常』(藤田麗子訳、平凡社)
クォン・ナミ『面倒だけど、幸せになってみようか 日本文学翻訳家の日常』(藤田麗子訳、平凡社)

日本の編集者にもらった1冊の本

 ある年の冬、岩波書店の編集者、奈良林愛さんからメールが届いた。『翻訳に生きて死んで』〔日本語版は2024年に平凡社より刊行〕がとてもおもしろかった、韓国に行くので一度お会いしたいと書かれていた。彼女は、私が翻訳した本の原書を手がけた編集者でもある。私の生活圏である建大入口コンデイプクで会い、時間が経つのも忘れて食べては飲み、おしゃべりに花を咲かせた。私の著書をハングルで読んでくれるぐらいだから、韓国語は言うまでもなく堪能だ。東京で韓国の出版社関係者が参加するイベントが開催されるときは、通訳を担うこともあるという。

 別れ際に彼女が本を1冊プレゼントしてくれた。三浦しをんの『舟を編む』だった。三浦しをんがこの小説を執筆するとき、取材のためにしばらく岩波書店に通っていたという。辞書編集部の人々が新たに国語辞典を作るという話だが、岩波書店には日本の国語辞典の中でもっとも信頼性が高い『広辞苑』の編集部がある。奈良林さんは私が三浦しをんのファンであることを本で読み、最新刊を持ってきてくれたのだ。うれしい贈り物だった。

編集者も「昨年読んだ本の中で最高傑作」と言うけれど……

 新刊を見ると、楽しもうという気持ちより先に「版権は空いているかな?」と考えてしまうのは職業病だろうか。三浦しをんの作品だから、すでにどこかの出版社が版権を押さえているだろうなと思って調べてみたら、まだ空いていた。「三浦しをんの新作なのに?」と疑問に思ったが、読んでみたら「あぁ、そういうことね」と腑に落ちた。

 前述したように、辞書編集部の人々が15年もの年月をかけて国語辞典を作るという物語だ。韓国語とは微妙に異なる日本語のニュアンスを一つひとつ翻訳しなくてはならない。無理だ。それに、日本の国語辞典を作るという物語に韓国の読者が興味を抱くだろうか?

 仲のいい編集者に『舟を編む』の話をしたら、こう言っていた。

「昨年読んだ本の中で最高傑作でした。でも、どんなふうに翻訳して編集すればいいか見当もつかなくて、版権取得のオファーを出せなかったんです」

 そう、ベテラン編集者でさえさじを投げた作品だった。「この本の翻訳を依頼されたらどうしよう?」とオファーを受けてもいないのに先走って悩んでいた私だが、早々に未練を捨てた。2カ月が過ぎても翻訳のオファーどころか、韓国の出版社と契約したというニュースも聞こえてこなかった。

 あ〜、やっぱりどの出版社もあきらめたんだな。そう思っていた矢先、この本が本屋大賞を受賞した。最近、本屋大賞の作品は直木賞受賞作より人気が高い傾向にある。ノミネートされた10作品がすべて翻訳出版されるほどだから、大賞受賞作品は当然どこかから出版されるはず。はたしてどの出版社から、どんな翻訳で出るんだろう。気になってじりじりしていたとき、なんと! 私に翻訳のオファーが入ってきた。本をプレゼントされてから10カ月後のことだった。「もし翻訳を依頼されたら?」と何度も考えていたが、すぐに結論は出せなかった。オファーはうれしかったけれど、ハイリスク・ローリターンの仕事を引き受けるのはプレッシャーだった。もう一度読んでから連絡する、と言って返事を保留した。

韓国の読者の反響は?

 読んだ方もいるかもしれないが、結局は私が韓国語訳を引き受けた。うまくやれる自信があったからではなく、この作品がこんなふうにドラマティックな形で私のもとにやってきたのは運命だと感じたからだ。この作品を誰よりもよく知っていて、もっとも関心を持っている翻訳者は私だと思った。翻訳作業は思いがけず楽しかった。三浦しをんの文章は、やはり私の好みを直撃した。軽すぎず重すぎず、ウィットが効いている。辞書に載る言葉を訳すときは、広大な言葉の海を漂流しているような気分だったが、ぴったりの言葉を見つけたときの快感も大きかった。

三浦しをん『舟を編む』韓国語版。クォン・ナミ訳、イチョウの木(은행나무)刊、2013年 出典:http://ehbook.co.kr/book/13550
三浦しをん『舟を編む』韓国語版。クォン・ナミ訳、イチョウの木(은행나무)刊、2013年 出典:http://ehbook.co.kr/book/13550

 こんないきさつを経て出版された『舟を編む』は、発売されるやいなや大手書店のベストセラーコーナーに華々しく名を連ね、発売から数年が経った今もおすすめの小説として話題になっている。

『面倒だけど、幸せになってみようか 日本文学翻訳家の日常』目次

プロローグ たしかに事実だ
第1章 村上春樹さんに人生相談
第2章 雑談です
第3章 ナミさんは幸せですか?
第4章 わが子の気持ちは翻訳できません
第5章 新聞に私が載ったよ
第6章 ときには世の中を楽しみます
エピローグ 面倒だけど、幸せになってみようか
訳者あとがき

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