ミシェル・フーコーの思考展開の軌跡を明かす伝説の名講義、遂に完結!
記事:筑摩書房
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筑摩書房から出版されているミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランス講義録も、12月に上梓された『主体性と真理』をもって、すべてが翻訳されたことになる。最後の翻訳を担当した者として、このコラムで「今フーコーを読むことの意味」について一筆記すことを依頼された。もちろん、読者の数だけフーコーを読む意味はあるだろう。そのため、以下では筆者自身の考えを披露し、もってお題への回答としたい。
20世紀後半に活躍したフーコーは、狭い意味でのフランス哲学の範囲を越え出て、多くの分野で読まれ、研究されてきた。彼が扱った分野は多岐にわたっており、たとえば精神医学、医学の歴史、科学史、監獄と刑罰、警察(ポリス。近代以前にはより広く「内政」に近い意味を持っていた)の歴史、性の歴史など多様な分野が挙げられる。ところが、フーコーはそれらの分野を個々別々に研究したのではなく、それら諸制度を貫通する、ある種の図式(主権、規律、生政治)を抽出することを目標にしていた。それゆえ、彼は自らの研究を「思考体系の歴史」と標榜した。他方、忘れてはならないのは、フーコーの研究は主に西洋近代(18、19世紀ごろ)を扱っていた点である。では、思想の歴史家として、彼は近代という時代をどう規定していたのだろうか。
フーコーによれば、近代とは人間の時代であるという。人間の時代とは、一言で言えば、人間(主体)が人間(客体)を人間的に考え、扱う(ヒューマニズム)時代である。すべてが人間を中心に展開し、人間に回帰する時代。それが近代である。近代は世界の中心が神から人間へ交代した時代であることを思えば、この主張はさほど驚くべきものではないだろう。しかし、フーコーが面白いのは、この人間の登場を歴史の進歩(無知に対する啓蒙の成果)とは考えず、むしろ歴史的な条件づけが重なった偶然の結果であることを論証している点にある。つまり、条件が変われば、世界の中心としての人間は消失、つまり「人間の死」が到来するというのである。それが彼の主著『言葉と物』の結論であった。
フーコーが半世紀前に「人間の死」を予告して以来、この主張は多くの議論を引き起こしてきた。ところで現在、この「人間の死」という考えは、情報科学技術の目覚ましい発展とAIの登場によって、新たな現実を与えられているように思われる。実際、ここ十年ほどで、『ポスト・ヒューマン』や『ホモ・デウス』と題された書物が、ひろく流通し読まれるようになってきた。それは、「人間の死」というフーコーの考えが広く一般に普及した結果だと言えるのだろうか。
筆者はそう考えない。むしろ、それらの思考には近代的な人間がいまだはっきりと刻印されているように見えている。フーコーの考えでは、近代の「人間」とは自分の内に必ず他者(分身)を抱えているものである。その他者とは、生物としての人間にとっての他者(動物、植物)であり、正常な人間にとっての他者(病人、狂人、障害者)であり、白人異性愛男性としての人間にとっての他者(女性、有色人種、同性愛者)である。この観点からすると、現在のAIを取り巻く議論は、有限な知性しか持たない人間とその他者(AI)という図式でものを考えており、人間とその他者という近代の思考枠組みのなかにぴたりと収まっている。つまり、AIと人類の未来を考えている人たちは、実際のところ、いまだ近代的な人間の枠組みに囚われているのではないか。
フーコーの「人間の死」という議論は、新しい現実を前にして、このように古い思考の図式に陥らないようにするため、いまなお示唆に富むと筆者は考えている。フーコーを鏡として、現在起きていることの新しさ、古さを理解すること。以上が、すでに半世紀近く前にこの世を去ったフーコーをいまだに筆者が読み続けている理由である。