頭木弘樹「危険な会話から安全な対話へ」──『専門家なしでやってみよう! オープンダイアローグ』より
記事:晶文社
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で、いまは、オープンダイアローグをやってみた後なのである。
やってみてどうだったのか? オープンダイアローグに対する印象は変わったのか?
結論から言うと、オープンダイアローグの大ファンになっている。人にも勧めたくてしかたなくなっている。
と書くと、「あー、ミイラ取りがミイラというやつだね」と思う人もいるかもしれない。私もそういう人を何人も見てきた。たとえば、私が在学していたときの筑波大学は、統一教会の勧誘がとても盛んで、知り合いが「おれは洗脳なんか絶対されないから」と言って、統一教会の拠点のひとつとなっていたビデオ屋に面白半分で出かけていって、見事に入信して、今度は私を誘いに来たという、おそろしい体験もしている。
だから、「いちど、やってみて。やってみたら、よさがわかるから」と、きらきらした目でいくら言ってみたところで、そんな目の輝きはぞっとさせるだけということは、よくわかっている。
なので、以下に、オープンダイアローグをやってみて、どんなことを思ったか、感じたか、書いてみる。それを読んで、各自でご判断いただきたい。
なお、他の方と説明とかぶるところもあるだろうが、私の視点からの話ということでご勘弁いただきたい。これも後で出てくる「ポリフォニック」ということだ。
今回、オープンダイアローグをやる4人は、みんな初心者だ。しかも、直美さんと私はまったくの初体験。そして、精神科医でもカウンセラーでもない。つまり、素人が、素人だけで、いきなり始めるわけだ。
そんなことでいいのか? 専門家が参加していなくていいのか?
精神科医の斎藤環さんに、まずレクチャーを受けることになった。
斎藤環さんは、専門家抜きでやってもかまわないというお考えだった。専門家がいると、どうしてもその人がリーダー的な立場に立ってしまいがちになる。そういう、専門家と素人というような、上下関係はよくない。専門家も、専門的な技法も必要なく、全員が対等に「ただ対話をつづける」のがオープンダイアローグのよさなのだと(これはお話をうかがった上での私の理解なので、斎藤環さんのお考えとはもしかするとズレがあるかもしれない)。
それは素晴らしいなと思った。長年病人をやってきて、自分の病気を左右し、命を左右する医師に対して、お代官様の前の農民のように卑屈に命乞いをつづけることに、どうしたって苦しさを感じていたから。
しかしだ。これがもし身体の病気の人たちの集まりだったとしたら、患者どうしで集まっていろいろ話しても、やっぱりしかたないのでは? 医師がいなければ、話にならないと思う。心の問題だと、専門家抜きでも大丈夫というのは、本当にそうなのか?
正直、まだ半信半疑だった。そして、これは直美さんが教えてくださったのだが、医療者の中には、専門家抜きでオープンダイアローグをやることに懐疑的な人もいるとのことだった。
となると、話がややこしい。
とりあえず、「統合失調症など精神疾患や、深刻なトラウマをあつかう場合には、専門家がいたほうがいいだろうが、そうでなければ、素人のみでやってみてもいいのではないだろうか」ということで進めていくことになった。
オープンダイアローグは、ただ対話をつづけるということなわけだが、そこにはいくつかルールがある。
私の理解では、まず重要なのは「複数でやる」ということ。
⚫︎1対1とかではなく、3人以上。
⚫︎相談するグループと、相談されるグループに大きく2つに分ける。
⚫︎相談される側は2人以上の複数に。相談するほうも、できれば、相談者と身内あるいは友達という2人以上の複数に。
そして、「アドバイスをしない」ということも重要だ。
⚫︎たとえば、夫との関係に悩んでいる人に「離婚しなさい」とか言ってはいけない。
⚫︎「別れないのはおかしい」などと、相談者を否定したりしてもいけない。
⚫︎「夫婦はこうでなければいけない」などと意見をおしつけてもいけない。
そして「ポリフォニックを心がける」ことも重要。これについては後で書く。
さらに、「リフレクティング」というのがある。これがいちばん目立つルールで、特徴的だ。相談するグループはいったん対話から外れ、相談されるグループだけで話し合う。ただし、別室でとかではなく、相談するグループの目の前で、すべて聞こえる状態で話し合う。私たちはオンラインでやっていたので、相談するグループはマイクとカメラをオフにしていた。
これは医師と患者の関係で言うと、患者の病状についての医師どうしの話し合いを、患者の目の前で行うということである。そんなことは通常はありえないし、聞くほうもこわいと思う。ただ、自分についての話し合いが、自分には聞こえないところで、勝手に行われるというのも、考えてみればおかしなことでもある。
さて、そういうルールで話してみると、実際どうなのか?
大変、違和感があった。
ルールにがんじがらめにされる感じがある。自由にしゃべれないのだ。「アドバイスをしない」ということだけでも、「これは言っていいかな、よくないかな」と、言う前にいちいち気になる。相談する側、相談される側と、立ち位置をはっきりされるだけでも、なんだかその役を演じているような感じになる。
本物の対話をしているというより、対話を演じている、対話ごっこのような感じがした。
「リフレクティング」も、相談される側のときは、当人のいる前で陰口をきくような居心地の悪さがある。相談する側のときは、自分のうわさ話をしているのを、たまたまドアの外で聞いてしまったような居心地の悪さがある。
こんな対話に、本当に意味があるのだろうか?
ところがである。
このルールにがんじがらめというのが、だんだんとてもいいものだということがわかってくる。
私は学生時代、サッカーをやっていた。サッカーは手を使わない。日常では手というのは、とてもよく使うもので、関係する脳の領域も広い。その手を使わないというのは、なんとも強烈な縛りだ。私はサッカーが大好きだったが、全身をフルに使うスポーツに比べて、なんとなくそこは劣っているような引け目を感じていた。
すると、ある人がこう言った。「なに言ってんの! ルールが強烈だから、面白いんじゃない」
これは私にとっては、コペルニクス的転回だった。そうか! 手を使わないという強烈なルールだからこそ、世界中でいちばん人気があるスポーツなのか! とすら思った。
ルールのないスポーツなんて、ただの危険な乱闘で、面白いはずがない。どんなスポーツも、最初にルールをおぼえるときは面倒くさいが、おぼえてしまえば、ルールがあるからこそ面白くなる。乱暴なやつが、「ルールもなにもあるか!」とむちゃくちゃを始めれば、とたんにつまらなくなる。
対話に関しても、同じことだった。オープンダイアローグのルールになれてくると、「これは素晴らしいぞ!」とだんだん感じるようになっていった。
そして、それと同時に、初めて気づいたのが、「これまでの日常の会話がいかに危険なものであったか」ということだった。
日常の会話にはルールがない。自由な代わりに、ある種の無法地帯だ。傷つけるかもしれないし、傷つけられるかもしれない。
いや、ルールがなくて自由というのは、正確ではない。じつは日常の会話には暗黙のルールがたくさんある。たとえば、近所の人に「どちらにおでかけで?」と聞かれて、「ちょっとそこまで」と答える。このとき、「今日は○○に行って、そのあとは××に行って……」とくわしく説明すると、おかしな人だと思われてしまう。聞いたほうも、本当に行き先が知りたいわけではない。そういうものだという暗黙のルールをお互いに心得ていないと、円滑な会話は成り立たない。
『みんな水の中』(医学書院)などの著作のある横道誠さんは、発達障害の当事者だが、「雑談が難しい」とおっしゃっていた。そういうものなのか、と意外に思っていたが、オープンダイアローグをやってみて、ようやくそれが少しわかる気がした。日常の会話には暗黙のルールがたくさんあって、それを共有していないと、とても難易度が高いのだと思う。
と言われても、日常の会話や雑談をスムーズにこなしている人には、ピンとこないかもしれない。私もそうだった。楽になってみてはじめて、いままで苦しかったことに気づいた感じだった。坂道なのに気づかずに歩いていて、平らな道なっていままでより楽に歩けるようになって、初めてそれに気づくような感じだ。
オープンダイアローグは、暗黙のたくさんのルールの代わりに、ルールを表に出し、明確にし、数を減らして単純化している。しかも、誰も傷つかないルールになるように配慮してある。
みんなでなんとなくやっていた遊びに、「これじゃあ、どうやっていいかわからない人もいるし、ケガする人もいるかもしれないから」と、ルールをちゃんと決めて、スポーツにしたようなものだ。
オープンダイアローグのルールを、私は「不自然」と感じたが、その不自然さこそ、オープンダイアローグのよさだった。歌人の穂村弘は『世界音痴』(小学館文庫)というエッセイ集で「『自然さ』を持てないために世界の中に入れない人間の苦しみ」について書いている。
「会話なんて自然にやればいいじゃない」と思うかもしれないが、会話していてケンカになるというのは、それこそ日常茶飯事ではないだろうか。「不自然」なルールにしたがってみることには、そうした「自然」のもつ問題を克服する力があるのだ。
最初は「ルールがあるから、自然にしゃべりにくい」と感じたわけだが、なれてくると、ルールのおかげで、ものすごく自由を感じられた。なぜかというと、日常会話にはじつはすごくルールがあって、そこから解放されるからなのだった。こんなに爽快感を感じるとは思わなかった。