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存在しないものの固有名をどう考えるべきか?――ソール・クリプキ『指示と存在――存在しないものに固有名はあるか』「訳者あとがき」より

記事:平凡社

ソール・クリプキ『指示と存在――存在しないものに固有名はあるか』(八木沢敬訳、平凡社ライブラリー、2026年4月3日刊)
ソール・クリプキ『指示と存在――存在しないものに固有名はあるか』(八木沢敬訳、平凡社ライブラリー、2026年4月3日刊)

クリプキとミル主義

 クリプキは1970年1月にアメリカのプリンストン大学で3回にわたって『名指しと必然性』という有名な講義をおこなっており、『指示と存在』はその続編とも呼べる内容を持つので、まず『名指しと必然性』について手短に話をしよう。『名指しと必然性』のメインテーマのひとつは、固有名のミル主義の擁護である。固有名のミル主義とは、個体を指示する名前は記述によってあたえられる意味を持たず、当の個体の単なるタグ(札、ふだ)にすぎないという主張。それに対抗する名前の記述理論によると、たとえば「モーセ」という名前は「イスラエル人をエジプトから導き出した指導者」という確定記述と同義であり、極端に言えばその記述の省略形にすぎない。この記述理論へのクリプキの反論はいくつかあるが、繰り返し出てくるのが可能性の言明によるもの。

 イスラエル人をエジプトから導き出すという行為は、いかなる人の行為としても形而上学的必然性はないので、それをモーセがするのは必然的ではない。なので「モーセはイスラエル人をエジプトから導き出した指導者ではなかった、ということは可能だ」という言明は真である。しかし名前「モーセ」を記述「イスラエル人をエジプトから導き出した指導者」で置き換えた言明「イスラエル人をエジプトから導き出した指導者はイスラエル人をエジプトから導き出した指導者ではなかった、ということは可能だ」は真ではない。ゆえに名前「モーセ」は記述「イスラエル人をエジプトから導き出した指導者」と同義ではない。

 この議論の細かい検討や記述理論へのそのほかの批判、さらにミル主義の形而上学や認識論への応用については『名指しと必然性』を参照のこと。

 さて、ミル主義が正しければ固有名の指示は記述的内容によっては決まらないので、いかにして決まるかという新たな問題が生じる。その問題の解決策となるのが『名指しと必然性』のもうひとつのメインテーマである名指しの因果説である(完成された理論というより理論にむかって示唆された大まかな図式の域を出ない、というクリプキ自身の考えを尊重して「因果論」でなく「因果説」と呼ぶ)。名指しの因果説によると、名指しは、名指されるもの(個体)がまずあって、それに名前をあたえる人がそれをほかのすべての個体から区別する(たとえば目前に明瞭に見えている特定の物体を指さして「これ」と言う)ことから始まる。そして、そう同定された個体に特定の名前をつける「洗礼」儀式をする(たとえば「わたしはこれを『フィロ』と名付ける」と宣言する)。その「洗礼」に立ち会った人々がその名前をその個体の名前として使い、その用法が言語共同体のほかの人々にも広がることでその言語共同体内でその名前がその個体の固有名として確立される。

因果説はフィクションの登場人物にあてはまるか?

 これが名指しの因果説の概要なのだが、ここでひとつ問題が起きる。わたしたちの言語共同体で「フィロ」という語がすでに名前として使われているとすれば、名指しの因果説によって、それは「洗礼」で導入され使用の因果関係の連鎖を通じて広がったはず、つまり、まず「洗礼」がなされていたはずである。ということはその「洗礼」で「フィロ」と名付けられたものがあったはずなので、「フィロ」と名付けられたものは存在する。もちろん「フィロ」と名付けられたものはフィロなので、フィロは存在する。これは「フィロ」という名前に限らず名前全般について言える。よって、もし名指しの因果説が正しければ、名前として使われている語を主語とする「何々は存在する」という形の存在言明は真でなければならない。

 別の言い方をすれば「何々は存在しない」は偽でなければならない。これが問題――「存在否定言明問題」または「空虚な名前問題」と呼ばれる問題――なのである。なぜなら「何々は存在しない」という形の真な言明はいくらでもあると思われるし、真偽が定かでない言明もあるので。たとえば「ハムレットは存在しない」や「サンタ・クロースは存在しない」などはあきらかに真であると思われるし、「モーセは存在しない」の真偽は学者のあいだでも論議がある。物語のなかでハムレットが持つとされる諸性質を持つ人物はいないのでハムレットは存在しないと思われるし、聖書でモーセが持つとされる諸性質を持つ人物がいるかどうか論議があるのでモーセは存在しないかもしれない。

 この問題を別の方向から見るとこうなる。もし誰かが空っぽの箱を指して「このなかの物体を名付けよ」と言ったら、わたしたちはどうすればいいかわからないだろう。その理由はあきらかだ。何かを名付けるにはまずその何かがなければならないからである。逆に言うと、何かが名付けられているならその何かはある、すなわち存在する。つまり、存在しないものの名前(空虚な名前、指示対象がない名前)はありえない。にもかかわらず「ハムレット」や「サンタ・クロース」など存在しないものの名前はあるし、「モーセ」など存在しないかもしれないものの名前もある。これはいかにして可能なのか? これが名指しの因果説に突きつけられる大問題なのだ。

 この問題にどう対処すべきかが『指示と存在』のメインテーマである。

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