原石としての諸星漫画 ――『諸星大二郎自選短篇集 幻』書評(評者:大谷亨)
記事:筑摩書房
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諸星大二郎は「漫画家ズ・漫画家」(「ミュージシャンズ・ミュージシャン」の漫画家版)と形容される特異な漫画家である。つまり、我々素人だけでなく、プロの漫画家からも深く尊敬される存在ということだ。諸星漫画が錚々たる漫画家の霊感源になってきたという話は、ネットを検索するといくらでも出てくる。
では、その原因とはなんなのか。もちろん、「凄い漫画を描いてるからだろ」というのは大前提だが、それだけでは十分な回答とはならない。諸星漫画はいったいどう凄いのか。中国民俗学を専門とする立場から素人考えを少し展開してみよう。
私は仕事柄、ネタ探しのために中国の田舎をよく訪れる。面白い論文を書くためには、他人の書いた論文ばかり読んでいてはダメで、論文の素になるネタを探さなくてはならない。だからこそ私は中国の田舎を訪れ、まだ誰も論文に書いていない混沌としたネタに出会おうと躍起になっている。言い換えれば、論文の執筆とは混沌としたわけのわからない事象(ダイアモンドの原石)を分析的な言葉で語り直す(磨き上げる)作業である。
おそらく、漫画家もある程度似たような作業をおこなっている。手塚治虫が「漫画から漫画を学ぶな」と言ったように、他人の描いた漫画を創作の養分にすると縮小再生産になるので、漫画の外側に原石となるネタを見つけ、それを娯楽として消費可能なフォーマットに磨き上げるのだ。ただし、漫画の場合は必ずしもネタを分析的に研磨する必要はない。極端な例で言えば、混沌とした夢の世界をそっくり再現できたのなら、それはそれで素晴らしい漫画となる。
だが実際のところ、「夢の話はつまらない」というクリシェが示すように、混沌としたイメージは娯楽になりにくい。いや、と言うよりも、混沌としたイメージが孕むぶっ飛んだ面白さをそっくり再現するのが難しいため、「夢の話」は往々にしてつまらなくなるのだ。つまり、問題は表現力にあるのだが、これを画術巧みにやってのけるのが諸星大二郎という漫画家である。
『諸星大二郎自選短篇集 幻』は、この諸星の超絶技巧を堪能するのに最適の短篇集である。なぜなら、ここに厳選された幻想的な物語たちは、優れて娯楽的でありながら、優れてわけがわからないからだ。おそらくネタという名の原石(諸星の頭に浮かんだ混沌としたイメージ)が原石に近い形でゴロッと表現されているのだろう。だからこそ私は、まるで夢を見るように、中国の田舎を旅するように本書を読まざるを得なかった。
諸星漫画が多くの漫画家たちの霊感源となってきたのは、まさにこのためではないだろうか。つまり、諸星漫画は磨き上げられたダイアモンドでありながら、荒々しいエネルギーを秘めた原石でもあったのだ。だからこそ諸星漫画は、「漫画から漫画を学ぶな」という手塚の教えをひらりとかわし、むしろ優れたネタとして機能してきたのだろう。
だが、なぜそんなことが可能なのか。議論は諸星の超絶技巧を分析する段階に進むべきところだが、私にそんな能力があるわけもない。よって、本エッセイはここで幕引きとなるのだが、最後に素人考えのダメ押しとして一枚の写真を披露したい。
ここに写るのは、河北省邯鄲市の某廟に祀られていた周公の偶像である。どうだろう、まるで諸星漫画からひょっこり抜け出してきたかのような顔をしてはいないだろうか。これは、たまたま諸星タッチの偶像を一体見つけたという話ではない。中国の田舎でネタ探しをしていると、よくこんな諸星フェイスの偶像に出会うのだ。
この奇妙な一致がなにを意味しているのか目下不明ながら、私はこの巧拙不確かな諸星フェイスこそが諸星漫画を原石たらしめている重要な原因なのではないかと、つげ義春の描くねじ式フェイスなども連想しつつ、妄想してしまうのだった。
Ⅰ 幻
涸れ川
異界録 (「諸怪志異」シリーズより)
Gの日記 (「グリムのような物語」シリーズより)
鏡島 (「妖怪ハンター」シリーズより)
影の街
Ⅱ 怪
ことろの森 (「あもくん」シリーズより)
魔術 (「栞と紙魚子」シリーズより)
淵の女 (「妖怪ハンター」シリーズより)
それは時には少女となりて
鳥居の先 (「あもくん」シリーズより)
Ⅲ 奇
奇妙なおよばれ (「グリムのような物語」シリーズより)
奇妙なレストラン
遠い国から 第一信
本の魚 (「栞と紙魚子」シリーズより)
(眼鏡なしで)右と左に見えるもの~エリック・サティ氏への親愛なる手紙~
あとがき 諸星大二郎