災厄のあとに芽吹くもの 「PUMPQUAKES」清水チナツ (編集者リレーエッセイ第17回)
記事:じんぶん堂企画室
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どうしても出したかった1冊の本のために版元を立ち上げようと思ったとき、相談にのってくださったのが里山社の清田麻衣子さんだった。無謀な計画に驚きながらも親身に話を聞いてくださり、最後には笑って背中を押してくださった。里山社の本の数々に、読者としても駆け出しの小さな版元としても励まされてきた。清田さんの本は、「ここではないどこか」を夢見るのではなく、「ここにも別の方策(オルタナティブ)は見いだせるはずだ」と勇気づけてくれるように思う。そんな清田さんからバトンを受け取り、わたしが本をつくるようになった原点について書いてみたい。
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人文書が灯火になることを教えられたのは、2011年3月の東日本大震災によってだった。当時、わたしは仙台の文化施設に学芸員として着任したばかり。震災から約2カ月後、余震の緊張が続くなかではあったが、再開した図書館は多くの人で溢れた。街なかの書店でも、ふだんは手に取られるこが多いとは言えない思想書や哲学書を求める人の列ができたと聞く。
大地震と大津波、あとに続いた原発事故により、多くの命が失われ、風景は様変わりし、これまで信じるともなく信じてきた世界が音を立てて崩れていく。そのとき人は、「取り戻すべき日常とは何か」「信じるに足るものとは何か」――言葉にならずとも問うていたのだと思う。わたし自身もまた、その問いのなかにいた。
そんな折、職場を訪ねてきたのが民話採訪者の小野和子さんだった。当時、小野さんは70代、わたしは20代。祖母と孫ほどの年幅ではあったが、小野さんの摯実な人柄に支えられ、退職後も交流は途切れず、やがて本をともにつくることになる。
小野さんが80歳になった頃、1冊の手製本をくださった。コピー用紙に印刷され、ホチキスと製本テープで綴じられた小さな本だった。傘寿を記念して身近な人へわたすために40冊だけつくったそうだ。
そこには、小野さんが30代半ばから50代にかけて、民話採訪の旅の途次で記した、採訪日記が収められていた。研究者でもなく、土地の生まれでもない。核家族で3人の子どもを育てる主婦だった小野さんは、1969年から東北の海辺の村や山奥の集落を、一軒一軒訪ね歩き、「昔話を聞かせてください」と、土地の人々に話を乞うてきた。そこには、民話とともに語られた「民の歴史」や、抜き差しならない状況から生まれた「物語りの群れ」を、全身全霊で聞く小野さんのありようが、切実な筆致であらわされていた。
「絶望的な現実を前にしたとき、その後も生きなければならないその人によって構築された物語の虚構世界が、その生を支える」と小野さんは書く。民話を語り手から引き離すのではなく、民話を回路としてその生を眼差すこと。それが小野さんにとっての民話採訪だった。
わたしは「信じるに足るものがここにある」と直感し、この本をたくさんの人の手にわたっていくものにしたいと願った。小野さんに「本にしたい」と申し出たところ、「それならば」と、さらに10話を寄せてくださった。ありがたいことだった。とはいえ、当時のわたしは仕事を辞めたばかりで、出版社勤めの経験もなく、編集も独学。小野さんと同じく東北に地縁も血縁もなく、作業場は台所脇の小さな机……と、足りないものをあげればキリがなかった。里山社の清田さんに相談したのは、ちょうどこの頃だった。
2019年、出版機能を持つコレクティブ「PUMPQUAKES(パンプクエイクス)」を仙台の仲間たちとたちあげた。2011年に経験した「QUAKES(揺れ)」を、新たな「PUMP(鼓動)」へ変えていきたいという願いを込めた。
手製本を、単行本用に編纂しなおした『あいたくて ききたくて 旅にでる』の制作は、試行錯誤の連続だった。小野さんが聞いてきた声のありようを、本そのものの佇まいにも表現したいと思い、京都のデザイナー大西正一さんのもとや、東京の印刷所のライブアートブックスを訪ね、組版や造本の相談を何度も重ねた。
小野さんが語る「石のように閉ざされた『物言わぬ世界』があり、さらに『尽きない苦労話の世界』があり、その上に咲く花のようにして『民話の世界』がこの世にある」(『あいたくて ききたくて 旅にでる』p.29)という言葉を手がかりに、宮城在住の写真家・志賀理江子さんに表紙の写真を撮り下ろしてもらった。
制作の過程で、小野さんがどんな半生を送ってこられたのか知りたくてたずねると、幼少期からのささやかな思い出も含めて、言葉を尽くして語ってくださった。そのとき、小野さんの旅の根に、幼い頃に経験した戦争の影があることを初めて知った。聞かせてもらったことを年譜にまとめ、巻末に綴じた。
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納品された本が届いたとき、わたしはすぐに小野さんの自宅に届けた。その晩、小野さんは本を抱いて眠ったとあとで教えてくれた。ようやく出版に辿りつけたものの、瞬く間に世界はコロナウイルスによるパンデミックに覆われ、予定していた出版記念トークは中止せざるを得なかった。そしてそのまま、わたしは以前から決まっていたメキシコでの1年半の研究生活を送ることになった。要するに、版元らしいことはほとんどなにもできなかった。にもかかわらず、この本はわたしの手を離れ、ずいぶん遠くまで旅をした。その様子は、ちょうど小野さんの聞いてきた民話のようで、聞き語られることで手渡され、全国各地の多くの読者と出会っていった。小野さんは自ら歩くことによって、地縁や血縁に縛られない「語り聞く」ことによって結ばれる共同体を東北につくったが、その先にも、全国の書店や読者と「本」を仲立ちにしたつながりが生まれることが実感された。この時代に本をつくり、届け、読むことの根源的な意味を考えさせられた。
メキシコ滞在中、親しくなった友人が「あなたのつくった本の話を聞かせて」と、場を開いてくれたこともあった。会場は彼の暮らすアパートの屋上で、住人たちから椅子を借りて並べるだけで、たちまち小さな場が生まれた。ゆっくりとしか話せないわたしの拙いスペイン語に、集まった人たちが熱心に耳を傾けてくれ、自分の暮らしやそのなかで語ってもらった物語について、口々に聞かせてくれた。屋上の一角には、マイクロ・ライブラリーがあって、そこには彼の世界中の友人たちがつくった本が並べられていた。この日、PUMPQUAKESの本もこの棚に加わった。
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メキシコから帰国後、小野さんから「じつは、もう1冊書いていたものがあるの」と、原稿が送られてきた。思いがけないことだった。
『忘れられない日本人――民話を語る人たち』は、小野さんが東北の地で、何十年と深い付き合いを重ねてきた8名の語り手の人生を編んだもの。極貧や戦争を生き抜いた人々の生は、善悪でわりきれない重みを持って響いた。
その一方で、わたしの生活は一変していた。娘を授かり、片腕で子どもを抱え、もう片方の手でキーボードをタイプする日々。子との「いま」「ここ」に永遠に閉じ込められたかのように思えるとき、小野さんとの本づくりが唯一、外の世界とのつながりを感じさせてくれるものだった。子を寝かしつけたあと、息を潜めてふたたび机に向かう。そんな夜、小野さんが旅を始める年に、母を亡くしていたことに気がついた。
商人の妻として働きどおしだったという小野さんのお母様は、人知れずこんな歌を広告の裏に書き残していた。
「ただひとり ただひとりにて 広き野を さまよひし夢を見ぬ さびしくもなし」
小野さんの旅は、母が生きられなかった生への応答でもあったのかもしれない。わたし自身が母となったいま、その思いは以前より身に迫って感じられ、小野さんがお母様について書いた随筆もこの本に納めさせてもらい、第2作目の本が完成した。
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そして今年は、2冊の本が完成した。民話そのもののおもしろさと奥深さを、身近なところで味わってもらいたいと願って出版した民話集で、民話一話ごとに小野さんによる「あと語り」が続く構成になっている。絶版になっていた『みちのく民話まんだら――民話のなかの女たち』の増補新装版を準備していると、「民話のなかの男たちにも独特の魅力があってね」と、小野さんが「男たち」の原稿の束を持ってきてくださったので、『みちのく民話まんだら――民話のなかの男たち』の初版も同時に出版することにしたのだ。
「民話のなかの男たちは、はぐれ者たち」だと、小野さんは言う。家や土地など継ぐべきものを持たなかった者、社会の周縁においやられた者。一話一話に、そこはかとない寄る辺なさが漂う。しかし、小野さんは「はぐれ者たちが居てこそ、世界はまわっている」のだと言い添えて笑う。思えば、小野さん自身も社会や研究の枠組みから、はぐれて生きてきた人だった。しかし、だからこそ聞き届けられた声がある。
小野さんはこの6月で92歳になる。採訪の旅は50年を越えた。4歳になったわたしの娘に、小野さんは会えばいつも「むかしむかし」と語り聞かせてくれる。娘もいつか、PUMPQUAKESの本を手にとってくれるだろうか。
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震災のあと、「信じるに足るものはなにか」と立ち尽くしていたわたしだったが、気がつくと、手元には出版した4冊の本があった。思えば、戦争や母を亡くした経験が小野さんを歩ませ、震災の経験が私に本を編ませた。災厄は政治や社会の問題を暴き、憤りや不安は日々募る。しかし、人を突き動かすのは、明るい動機ばかりではない。自身に問い続けることをやめなかった小野さんの歩みは、諦めや冷笑からもっとも遠いところにあった。
手製本を受け取った際に添えられた手紙はこう結ばれていた。「語り手の方々はみな残らず鬼籍にはいられています。今頃は、あの世で待っていてくださることでしょう。それでも、わたしは『まだまだこの世にはばかってやるぞ』という気持ちで、毎日を過ごしています」。読み返すたびに、すこし笑って、背筋がのびる。
本づくりと並行して、わたしはメキシコ・オアハカの路上で展開される版画運動のリサーチをおこなっていた。帰国後にその展覧会や関連するトークイベントなどを東北だけでなく関西や関東でもおこなってきたが、まるで近所に住んでいるかのように、多忙でもなんともないような顔をして駆けつけてくれるのがTISSUE Inc.の安東嵩史さんだ。近刊編書の、新里堅進作品選集および評伝『ソウル・サーチン』は、沖縄での数年の安東さんのお仕事が凝縮された凄まじい本だと思う。つぎは安東さんの本づくりの話を聞かせて欲しい。