バフチンの全貌をいかに描くか 大石雅彦さん(早稲田大学名誉教授)
記事:白水社
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バフチンのテクスト・研究の流れをひと渡りざっとみてきたわけだが、とりわけ気にかかる点がふたつある。本書が最終頁を迎える時に、これだけははっきりさせておきたいと思う問題点である。ひと言それに触れておきたい。
近年、バフチンやモスクワ・タルトゥ学派に対して、言語中心主義的であるという批判がさしむけられている。それは、素朴なロゴス中心主義批判から高度な言語論批判まで幅広く分布している。20世紀が言語論の世紀で、バフチンが言葉のひとである以上、バフチンの思考の中心に言語・文学があるのは当然のことであり、言語論に対する揺れ戻し期に入っているいま、言語論と言語中心主義の混同がおこり、バフチンに向けた言語中心主義批判が生じるのは不思議ではない。この場合必要なのは、この批判を反省的契機として、バフチンがどのように言語を位置づけているのかを改めて精査してみることである。その前にまず断っておかなければならないのは、彼の言語論が言語学批判、独自の「メタ言語学(металингвистика)」としてあることだ。そこで決定的な契機をなすのは発話、対話であり、ことば・言語の多様性、ポリフォニーである。
それ以上に重要なのは、言語とイメージが対化されていることだ。たとえば、最初はヴィジョンのもとに描かれていた「私」はやがて対話、言語の絡みの中で語られるようになる。言語の背後にはイメージが、イメージの背後には言語がいつも潜んでいる。言語にとってのイメージは言語からはみだした剰余領域でもある。バフチンの思考の基底にある境界性・界面性にのっとれば、言語はイメージとの界面に存在する境界的・界面的なものだということになる。
言語の両価性・界面性に着目すると、バフチンが言語から切りすてているようにみえるものをイメージの側に吸収することも可能となり、それらと言語との新たな関係もみえてくる。たとえば、『マルクス主義と言語哲学』は意味の原形態としてO・ヴァイニンガー、H・ゴンペルツに由来する「全体印象」をあげており、これなどは界面現象のひとつの表れといえる。ラブレー論の主人公であるグロテスクな身体も生身の身体ではなく、言語とイメージの界面に位置するものにほかならない。言語を界面現象へと拡張することは、言語の存立基盤の彼方、結局は自然に目をむけることにつながり、ひいては多自然主義へと導いてゆくだろう。その意味で、バフチンのたてる「ロゴス圏(логосфера)」をどこまで深く掘りさげられるかは、バフチン理解の重要な鍵のひとつになる。
バフチンの思想は「私」の存在、仮設的独我論から始まる。これは特殊「私」論というべきものである。その後、「私」の成立にも「私」の理解にも不可欠な契機である他性・「私 - 他者」関係論へと軸が移される。この他者は具体的なあなたでも、抽象的なものでも、絶対的な存在でもある。先の特殊「私」論にたいして、こちらは一般「私」論とでもいうべきものになっている。具体的なあなたは種々のジェンダーを有するだろうし、「私 - 他者」から民衆文化論に説かれる「われわれ」に進むためには、さらに視座をきりかえる必要がある。他者として一括りにされているものも、具体的な場面にそって考えようとすると、そこに種々の差異化が生じる。「私」の概念をより微細で具体的に理解するためには、こうした差異にそって小刻みにステップを踏みながら、推論を進めなければならない。これがふたつ目の問題点である。
【大石雅彦『ミハイル・バフチン論 「ロゴス圏」探求のために』(白水社)緒言より】