「自分は正しい」は時には人を傷つける ──原田隆之『正義の暴走』より
記事:筑摩書房
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正義とは一体何だろうか。
かつて「正義」をテーマに連載を書いてくれないかと、ある出版社から依頼されたことがある。 私は犯罪心理学者で、さまざまな犯罪の解説記事を複数のオンラインメディアに寄稿したり、書籍を書いたりしており、そのなかでは当然「正義」の問題がクローズアップされる。そのため、「正義」をテーマに定期的に記事を書いてほしいという依頼だった。
たしかに面白いテーマだと思い少し考えたが、それ以前に定期的に発信するということが私にはできそうになく、結局お断りすることにした。
しかし、このテーマはいつも私の頭の中にある。やはり、犯罪を研究する身としては正義の問題は切り離せない重要なテーマであることは間違いないからだ。
そして、コロナ禍を経験したことで、私の正義に対する見方や考え方が大きく変わった。
コロナ禍でわれわれは、感染に関する不安や行動制限に対する閉塞感など、さまざまな複雑な感情を抱くことが多かった。そして、そのなかで、人々は自身の「正義」から、他人を攻撃したり、非合理的な行動を取ったりすることがしばしば見られた。そして、それはいまだに続いている。
たとえば、コロナ禍の初期は、マスクを装着していない人に注意をしたり、マスクを着けるように迫ったりする「マスク警察」が話題になった。また、あろうことか、感染者への誹謗中傷や差別も大きな社会問題となった。
マスクを着けていないことは、感染防止という「正義」に反することであるし、感染したことはきちんとした感染防御をしていない不届者だという「正義」を振りかざしての行動だと考えられる。
逆に、マスクをしたくない人が、マスク着用を求められたことに反発し、飛行中の航空機内で暴れて航空機が緊急着陸するという事件も起こった。その同一人物がその後、ノーマスクで食堂に入ろうとして、店の人に咎められたことに激高し、再び暴力沙汰を起こして逮捕されるという事件も起こった。
彼は「マスク強制は人権侵害だ」という「正義」を盾に、今なおSNSでその主張を繰り返しているが、これらの事件はマスク云々を通り越して、暴力沙汰の事件にすぎない。
ワクチン接種が始まってからは、ワクチンに反対する団体が接種会場に詰め掛けて接種の妨害をし、逮捕者まで出るという事件が起こった。彼らは、「mRNAワクチンという新しいワクチンは危険なものであるから打ってはならない」という彼らなりの「正義」の下にこのような危険な行動に出たのである。しかし、その主張の根拠には、突拍子もない陰謀論や非科学的な誤情報しかなかった。
現在では、ワクチンだけでなく、コロナ禍のあらゆる感染対策が間違いだったと主張する極端な人々が、かつて感染対策を主導した医師など専門家に対するSNSでの誹謗中傷を激化させている。専門家が緊急事態宣言など過剰な感染対策を推奨したために、経済が悪化し社会が混乱したという後付けの主張で、彼らなりの「正義」に基づいて、専門家に数知れぬ誹謗中傷を繰り返し、刑事事件にまでなったケースもある。
被害者となっている専門家たちは、前代未聞の国難のなかで、身を挺して感染防止を訴え、感染者の治療に当たり、そしてワクチン接種を精力的に推し進めてきた英雄ともいえる存在である。しかし、コロナ禍が一定の落ち着きを見せた途端、一部の人々が、手のひらを返したように専門家に対し、SNSなどで聞くに堪えない暴言を浴びせ、勤務先に脅迫まがいの電話をしたり、個人情報を晒したりとやりたい放題なのである。
また、コロナ禍に限らず、わが国では日常的に「正義の暴走」による事件が起きている。たとえば、大手芸能事務所の創業者が、膨大な数の未成年のタレントに長年にわたって性暴力をはたらいたという事件は、英国BBCのドキュメンタリーを契機に、わが国でもやっと批判の標的になった。次々と被害者が声を上げるようになり、芸能事務所は社長を変えて看板を掛け直したが、今なお被害者への補償の問題は片付いていない。この事件は、「スターを育てる」という「正義」の下に長年見て見ぬふりをされてきた。
さらに、被害者に対する誹謗中傷もすさまじいものがあった。犯罪の被害者を責めるということは、決してあってはならないことであるが、残念なことにそれは頻発している。たとえば、「被害者にも落ち度があった」「被害者も性暴力を許容していた」などというゆがんだ「正義」によって、被害者を責めるのであるが、百歩譲ってどんな落ち度があったとしても、加害者が悪いのは当然のことであり、被害者が責められるいわれはまったくない。
かつて、「正義の暴走」といえば、戦争やジェノサイドのような大規模な犯罪や暴力が話題になることが多かった。
ピュリッツァー賞を受賞した『よい戦争』のなかで、スタッズ・ターケルは、ベトナム戦争後にアメリカ人が第二次世界大戦を「よい戦争」だったとみる風潮が高まったことを指摘している。つまり、先の大戦は「民主主義対ファシズム」の戦争であり、アメリカは民主主義を守るという「正義」のための戦争だったと多くの人が認識するようになったという。
しかし、これはアメリカ人の第二次大戦観に限ったことではない。有史以来のありとあらゆる戦争は、何かしらの「大義」の下に行われ、指導者は、それが「正義」の戦いであることを国民に信じこませようとした。普通ならブレーキがかかるような残虐な行動であっても、「正義」の名の下では歯止めがかからなくなる。
かくいう日本も「八紘一宇」という「正義」の名の下で戦争をしていたのであるし、ロシアのウクライナ進攻も「ウクライナ軍がウクライナ東部のロシア系住民を攻撃しており、その攻撃からロシアを守る正当防衛である」という「正義」から始められたものである。
しかし、コロナ禍でわれわれが目の当たりにしたのは、市井の人々によるもっと小さな「正義」の暴走であった。そして、それはコロナ禍に限らず、日常のそこかしこで頻発している。
ナチス親衛隊の幹部であったアドルフ・アイヒマンについて、ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」という言葉で形容したことはよく知られている。数百万人ものユダヤ人の虐殺に加担した彼は、決して猟奇犯罪者のように冷血極悪な異常者ではなく、淡々と上からの命令に従った挙句、このような戦争犯罪を起こした凡庸な小役人にすぎなかったというのだ。
戦争やジェノサイドであっても、それに加担する人々は凶悪な悪魔というよりはむしろ、凡庸な一市民だったのだ。そして、規模や害はそれほど大きくないとしても、コロナ禍においても、そしてそれに続く日常でも、一般の人々の「正義の暴走」は幾度となく起こっている。
こうした「正義の暴走」による悪を目の当たりにした私は、それをきちんと書き留めておきたいと思う。それが、人間の心理のより深い洞察につながると思うし、将来の「正義の暴走」を防止する一助になるかもしれないからだ。
近年、日本各地でクマによる人身被害が相次いでいる。2025年8月、北海道・知床半島の羅臼岳では、登山中の男性がヒグマに襲われ死亡する事故が発生し、社会に大きな衝撃を与えた。
報道によれば、男性は同行者と下山中にクマと鉢合わせし、藪の中へ引きずり込まれた挙句、後に遺体で発見された。事故直後、現場周辺の登山道は閉鎖され、地元自治体は注意喚起とともに緊急の対応を迫られた。
知床という世界自然遺産の地で起きた死亡事故は、「自然の脅威」がもはや観念的なものではなく、現実のリスクであることを強く印象づけた。
同様の事例は、北海道だけにとどまらない。秋田・岩手両県をはじめとする東北地方などでは、クマが住宅地や市街地に出没する事例が頻発し、人が襲われて死亡する例も複数報告されている。2025年中の人身被害は230件超、死亡例は13件で、いずれも過去最悪であった。
あるニュース番組では、妻をクマ被害で失った高齢男性が、妻を発見したときの惨状を語っていた。夕方になっても帰って来ない妻を心配して外に探しに出た男性は、水田の側溝に妻がうつ伏せに倒れているのを発見した。急いで起こそうとしたが、なんと妻の身体には首がなかったのだという。
60年以上連れ添った妻の変わり果てた姿を見た男性は、身体が震えて声も出なかったと語っていた。妻の首は、のちに近くの山林で発見されたとのことである。クマには悪意はないといっても、何という悲劇であろうか。
山間部や農村だけでなく、学校や商業施設など市街地にクマが姿を現し、住民が襲われて負傷するというケースも頻発している。いわゆる「アーバンベア」である。これらは偶発的な「迷い込み」ではなく、一定の背景をもって繰り返されている点に特徴がある。
クマがこれだけ多数出没し、人を襲う背景には、複数の構造的要因があると指摘されている。第一に、クマ個体数の増加である。狩猟者の高齢化や減少により捕獲圧が低下したこと、森林環境の変化によって餌資源が増えた地域があることなどが重なり、クマの生息域と個体数は拡大してきた。
第二に、里山など緩衝地帯の消失である。かつて人の生活圏と山林の間に存在していた緩衝地帯は、過疎化や管理放棄によって荒廃し、人と野生動物の距離が急速に縮まった。その結果、クマにとって人間の生活圏は「侵入してはならない場所」ではなく、餌を得られる延長線上の空間となりつつある。
第三に、人を恐れないクマが増加している。特に、アーバンベアは、人の生活圏において、農作物を荒らしたり、木に登って柿を食べたりする姿が繰り返し見られており、人家や倉庫に頻繁に入り込む様子も報道されている。
ここに餌があるということを学習したクマは、人がそこにいようとおかまいなしで、何度も餌を求めて出没するのだという。
こうした状況を踏まえれば、現状のままだと、人とクマが遭遇することを完全に防ぐのは、不可能に近い。登山者や住民への注意喚起だけで解決できる段階は過ぎつつあり、社会としてリスクをどう管理するかが問われている。
このような現実に対し、自治体は注意喚起や立ち入り規制を行い、それでも危険が切迫した場合には、最終手段としてクマの駆除という判断を下してきた。とはいえ、ハンターの高齢化、成り手不足が深刻で、狩猟免許や経験を有する自治体職員「ガバメント・ハンター」の育成が急がれている。
しかし、そのたびに一部の人々から激しい反発が起こる。彼らは、「クマがかわいそうだ」「なぜクマを殺す必要があるのか」「人間が自然を壊してきた結果ではないのか」などと声高に叫ぶ。
さらに事態が進むと、自治体への抗議電話、駆除に関わったハンターへの誹謗中傷、さらには被害に遭った登山者や住民に対する「自己責任だ」「軽率だった」といった非難まで噴出する。このように、クマ被害は、単なる自然災害ではなく、社会的な対立を生み出す問題へと変質している。
ここで起きているのは、単なる感情的対立ではない。二つの「正義」が正面から衝突している状況である。
一方には、人命や経済活動、生活の安全を守るという「正義」がある。地域住民の安心を確保すること、子どもが安全に通学でき、高齢者が安心して外出できる環境を維持することは、自治体に課された基本的責務である。そして、誰もがそのような社会を望んでいる。
加えて、観光や農業といった地域経済の継続も無視できない。クマの出没が常態化すれば、登山や観光は敬遠され、農作物被害や風評被害も拡大する。こうした現実を前にすれば、危険な個体を排除するという判断は、「冷酷さ」ではなく、安全管理として理解されうる。
しかし、他方には、野生動物を守る、人間の勝手で動物の命を奪わない、自然を尊重するという「正義」がある。
クマは本来、人間を積極的に襲う動物ではなく、人間側の開発や環境破壊の結果として軋轢が生じているという認識は一定の説得力をもつ。人間中心主義を見直し、野生動物と共存する道を模索すべきだという主張は、現代社会において重要な倫理的視点である。
問題は、どちらか一方が正しく、どちらかが間違っていることではない。どちらもそれぞれの論理において正しい。しかし、どちらも正しいがゆえに、相手の「正義」を「排除すべき誤り」として捉え始めたとき、議論は急速に硬直化する。
人命を守りクマを駆除する「正義」は「動物を軽視する冷酷な判断」と非難され、クマを守る「正義」は「人的被害を顧みない無責任な理想論」と断じられる。
この相互否定の構図こそが、行き過ぎた「正義の暴走」の核心である。正義は本来、問題を解決するための指針であるはずだが、互いにそれぞれの正義が絶対化した瞬間、「正義」は他者を攻撃するための武器へと変わる。クマ被害をめぐる対立は、その典型例として、私たちに重い問いを突きつけている。
クマ被害をめぐる議論で、しばしば見られるのが被害者非難である。知床で起きた悲惨な事件では、「なぜ危険な山に入ったのか」「もっと注意できたはずだ」「自己責任ではないか」といった言葉が、事故の詳細が明らかになる前から噴出した。
こうした反応は、被害者に対する冷酷さや想像力の欠如として批判されがちである。しかし心理学的に見ると、そこにはより普遍的で、多くの人に共有されやすい心の働きが存在している。
それを説明する代表的な概念が、公正世界信念(belief in a just world)である。社会心理学者のラーナーは、人は「世界は基本的に公平であり、人は自分の行為に見合った結果を受け取る」と信じたい傾向をもつことを指摘した(Lerner, 1980)。
努力すれば報われ、規範を守れば良い結果が伴うという感覚は、日常生活を成り立たせるうえで重要な前提となっている。
公正世界信念は、とりわけ秩序や予測可能性を重視する人、将来への不安が強い人、自己統制感を保ちたい人ほど持ちやすいことが知られている。
また、この信念が強い人ほど、「社会は基本的にうまく機能している」「重大な不幸は例外的なものだ」と捉えやすい傾向がある(Dalbert, 2001)。この意味で、公正世界信念は、世界を基本的に安全なものとしてとらえ、安心して生きるための「認知的枠組み」として機能している。
しかし、公正世界信念には明確な副作用がある。それは、理不尽な被害や偶然的な事故に直面したとき、世界の公平性への信念が根底から揺さぶられてしまう点である。事件や事故は、大抵の場合理不尽なもので、理由なく人が襲われ、命を落とすことがしばしば起きる。
しかし、その事実は、「この世界は基本的に安全だ」「正しく生きていれば安全でいられる」という信念と正面から衝突する。そのため人は、「なぜそんなことが起きたのか」を説明できない状態に強い不安を覚える。
この不安を和らげるために、人は被害者の側に原因を求める。「被害に遭ったのは行いが悪かったからだ」と考えることによって、「自分はあの人と同じことさえしなければ大丈夫だ」という心理的安心感を確保しようとする。つまるところ、被害者非難は、自分自身の心の安寧を維持するための操作として生じる。
クマによる人身被害は、まさにこの公正世界信念を強く脅かす出来事である。野生動物との遭遇は偶然性が高く、注意や経験を重ねていても完全に回避できるものではない。その現実を真正面から受け止めることは、「次は自分かもしれない」という不安を直視することに等しい。そこで人は、被害者の判断や行動に原因を帰属させ、「危険な山に入ったからそんな目に遭ったのだ」「判断が甘かったのが悪い」と整理することで、心の中で世界の秩序を回復しようとする。
この過程で用いられる「自己責任」という言葉は、道徳的非難であると同時に、不確実な世界に耐えるための心理的防衛反応と理解できる。実際、公正世界信念が強い人ほど、日常的に不安が強く、犯罪被害者や事故被害者を否定的に評価しやすいことが、数多くの研究で示されている(Hafer & Bègue, 2005)。
重要なのは、この信念が「間違った人の特徴」ではなく、多くの人にとって自然に形成される心理であるという点である。公正世界信念は、日常生活の安心感を支える一方で、極端な事例に直面したとき、被害者非難や自己責任論という形で表出しやすい。その両義性を自覚しないままでいると、私たちは容易に「正義」の名のもとで、当事者をさらに追い詰めてしまう。
第一章 「正しさ」が衝突するとき――クマの駆除は悪か
相次ぐクマ被害/クマ被害の背景/二つの「正義」の衝突/不幸を「自己責任」に変換する心理/基本的帰属の誤り/後からなら何とでも言える/なぜ人は単純な説明を求めるのか/「クマがかわいそう」という正義/不可視化される自己関与/「正義」が暴走するとき
第二章 制裁という快楽――いじめ動画の拡散とネットリンチ
相次いだいじめ動画の拡散/動画拡散は「正義」の行為か/いじめとは何か/傍観者効果/道徳的免罪と道徳的不活性化/匿名性が攻撃のハードルを下げる/集団極性化/告発と私刑は同じではない/制裁の快楽
第三章 分断か共生か――外国人を排斥する心理
増える外国人、強まる「違和感」/外国人犯罪増加という噓/ゼノフォビアの心理構造/内集団バイアスと「われわれ」意識の肥大化/確証バイアス/島国的「同質性神話」という前提/スケープゴート化される外国人と政治/日本人ファースト/共生は可能か ―― エビデンスが示す事実/排外か共生か ―― 「正義」を問い直す
第四章 被害者バッシングはなぜ起こる――スターを育てるという「正義」
公然の秘密が前代未聞の世界的スキャンダルになるまで/BBCによるドキュメンタリー/性暴力とは何か/世界に広がる子どもへの性暴力/性暴力への対応/「才能を見出し、育てる」という「正義の仮面」/組織文化が「共犯」となるとき/被害者が受けたトラウマ/男性性被害者特有の問題/文化としてのジャニーズ/被害者バッシングという二次加害
第五章 世間にはびこる自称カウンセラー――「人の心を癒したい」という思い上がり
「人を助けたい」という動機の正しさと危うさ/心理支援という非対称な関係「誰でも名乗れる」制度が生む問題/海外のカウンセラー制度/善意が専門性の/錯覚に変わるとき/「自分も苦しかった」という経験の一般化/ケース・フォーミュレーション不在の危険性/倫理なき支援がもたらす二次的被害/診断ラベルが「支援」から「管理」に変わるとき/自己成就予言という呪い/自称カウンセラーが不用意に与える予言/専門家を名乗る「正義」が暴走したとき
第六章 パンデミックの恐怖心の果てに――「敵」は心の中にいる
コロナ禍という異常事態/緊急事態宣言が明けたとき/曖昧さ耐性とリスク認知/「コロナ警察」の出現/斉一性への圧力/コロナ警察の「正義」/コロナでの分断/都会の人お断り/分断と排斥/心と体のソーシャルディスタンス/ある保健所の話/「敵」はわれわれの外にあるのではなく、心のなかにいる/隠喩としての病/コロナと隠喩/人々の恐怖心/隠喩の生まれる理由
第七章 エビデンスと物語の相克――人は事実より信じたいものを信じる
マスクや感染対策を拒否する人々/矛盾する二つの意見/エビデンスに基づく医療/エビデンス・ピラミッド/医師Aと医師Bのどちらを信じるか/エビデンスと人間の心理/エビデンスを活用するために/専門家への誹謗中傷という構造的問題/複雑な因果推論の誤り/オンライン脱抑制と転移性攻撃/曖昧さ耐性と極端化/敵意帰属バイアスと脅威認知/ゆがんだ「正義」と道徳的不活性化/誹謗中傷の強化学習モデル/ダーク・テトラッド・パーソナリティ/誹謗中傷の代償/オンラインでの誹謗中傷を減らすために
第八章 人はなぜ陰謀論にハマるのか――デマこそ広がりやすい
陰謀論とデマ/陰謀論とは/陰謀論という生き方/陰謀論の害/陰謀論を語る自由はあるのか/陰謀論への対策/具体的な誤情報対策/1 常に誤情報のモニタリングをする/2 人々の声を聴く/3 正確な情報を提供する/誤情報を放置しないこと
第九章 人生をかけた正義の暴走――安倍元首相暗殺の心理
元首相の暗殺/事件をエンターテインメントとして消費する人々/「専門家」による加害者の心理分析/山上徹也被告と「私的正義」の形成/生い立ちと家族崩壊 ―― 喪失が日常化する家庭/怒りの方向転換/標的の転換/人生の意味/偶然か必然か/ほとんど語られてこなかった「孤立」の問題/セントラルエイト/なぜ「止められなかった」のか/個人の凶行で終わらせないため