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井上荒野さん「生皮 あるセクシャルハラスメントの光景」インタビュー 性暴力について小説ができることは

自分を肯定するために

――今回、小説のテーマに「性暴力」を選ばれたのは、なぜでしょうか。

 作品のテーマを構想している頃、フォトジャーナリストによるセクハラ報道がありました。彼は、世界の虐げられた人々の現状を伝えるという仕事をする一方、ジャーナリスト志望の女性たちにおぞましい性暴力を振るっていた。一人の人間の中に、このような二面があるのはどうしてだろう、たとえば彼自身は、この二面を自分の中でどのように整合させているんだろう……。最初はそんな疑問から、舞台を小説講座にうつし、書き始めました。

 書きながら考えたのは、加害者である月島は、百パーセントの「悪」だけでできあがっているわけではないのではないか、ということです。「咲歩にいい小説を書いてほしい」という思いにウソはなかったのではないか。それとは別に、彼にはパワー(権力)があり、女性を意のままにしたいという欲望があった。指導者としての志と、欲望とを、意識的にか無意識的にか、混同させていったのではないか。だからこそ被害者たちは拒絶できなかったのではないか。

 また、月島の性暴力の根底には、彼自身のコンプレックスや焦りもあったのではないか。彼は情熱ある編集者でしたが左遷され、その後、小説講座の講師として成功したという設定です。そういう経歴の持ち主として、つねに自分を肯定する必要があったのではないか。もう若くないということも大きいかもしれない。自分を肯定するため、「おれはまだいける」ということを自身に証明するために、被害者たちを利用したところもあったのではないかというふうに考えていきました。

――小説には咲歩ともう一人の女性がレイプされるシーンが登場します。かなり生々しく描かれ、その残酷さが胸に迫ります。

 この小説を書く前に性暴力の体験談を読みました。読むだけでも自分の中の何かが奪われるような感じがしました。性暴力というものは、「男が覆いかぶさってきた」「望まない行為をされた」などと婉曲に表現されるべきじゃない、と思ったんです。「愛していない、セックスをしたいと思っていない男のペニスが自分の中にねじ込まれた」、そういうことなんだよって伝えたかったんです。

 タイトルの『生皮』もそうです。殴られたとか刃物で刺されたとかより、ある意味でずっと残酷で深刻なダメージを被害者は受ける。自分の皮がはがされて、そのあとの肉がさらされている、そのくらいの酷いことなんだと。実際の被害者の心のすべてをわかったなんてとても言えないですが、少しでも近づきたい、理解したいと思いながら書いていました。

ルポではなく小説にできること

――『生皮』は、登場人物ごとにパラグラフを立てた構成ですが、そこに被害者や加害者、その家族だけでなく、咲歩をSNSで批判する男子大学生・真人や、月島の講座復帰の署名活動をする70代の笑子が登場します。

 性暴力は当事者だけの問題じゃない。加害者にそれを許す場や現代の空気があると考えました。ああいう告発のたびに、被害者を誹謗中傷する人がいる。「なんでそんな昔の話をいま言うんだ」「自分でホテルについていったんだろ」って。

 見知らぬ他人をそんなふうに中傷するのは、どういう人たちなんだろう、そうすることで彼らは何を得るんだろう、と考えて出てきたのが真人や笑子です。彼らの「正義」の中には、自分で認めたくない彼ら自身の挫折や劣等感が混じっているのではないか。被害者たちの告発によってそれらが明るみに出るような気持ちになるのではないか。被害者たちが告発したということ、その行為自体に脅威や嫉妬を感じるというのもあるのではないでしょうか。

イラストレーション:リトルサンダー

――当事者以外の世間の空気感まで伝えられるのは、ルポではなく、小説だからこそですよね。

 小説はルポよりも意地悪くなれるし、あからさまにもなれます。ルポで取材を受けた人が決して明かさない胸の内を、小説家は想像して登場人物に語らせることができますよね。語らない、ということを書くこともできるし、その問題に関わっていないときの行動、彼または彼女にとって、世界はどういうものなのかということも書ける。想像して書く、人物を造形するということで、ルポよりも真実に近づける、ということはあるように思います。

性暴力をなくすために

――先日、作家の山内マリコさん、柚木麻子さんが発起人として「原作者として、映画業界の性暴力・性加害の撲滅を求めます」という声明を発表しました。井上さんも賛同されていますが、それはどういった思いからでしょうか。

 お声がけいただいた当初は、かなり慎重だったんです。映画の原作者からの声明というのが、新たなパワー(圧力)になるのではという危惧がありました。「原作者にばれたらまずいから隠ぺいしよう」というふうになることは絶対避けたかった。それで発起人の方々と何度かやりとりしました。最終的に賛同することに決めたのは、性被害を受けた人が告発しようとするときに、映画界ではないもうひとつの伝える場所がある、味方がいると思ってほしかったからなんです。

――小説では、月島の編集者時代のエピソードで、女性編集者が作家からセクハラに遭ったり、料理などの雑用を押し付けられたりする様子が描かれます。現在の出版界や文芸界にも性被害や性差別はあると感じますか?

 私自身はそういうことでいやな思いをしたことはありません。自分が誰かを傷つけたという記憶もないけれど、なかったと思っていること自体、ずれているのかもしれない。たとえば小説中に書いたような、お酒の場での初体験告白ゲームみたいなこと。それに近い状況はあったし、「そういうものだから」「公にするべきことじゃないから」と流してきたことは多いのではないか。そういう空気に、積極的ではないにせよ、自分が加担してこなかったとは言えない、と思っています。

読後に見える世界を変えられたら

――この小説でそういった問題に警鐘を鳴らしたいという思いもあったのでしょうか。

 私は自分の小説で誰かを啓蒙したり、メッセージを発信したいとは思わないんです。ただ、読者にも自分自身にも、まだ見たことがない光景を見せたいと思っているんです。こういう状況があるんだ、こういう人がいるんだ、こういう感情の動きかたがあるんだ、とか。そういうことを知るために小説ってあるんじゃないかと思うんです。

 だから……うん、そうだ。小説って、そういう意味では世界を変えられますよね。この小説に出てくる加害者も、誹謗中傷する人も、すべてゼロから造形したつもりですが、その造形のモト、タネみたいなものは、自分の中から取り出したような気がするんです。それこそ、普段は気づかないふりをしている虚栄心や屈託、コンプレックスなんかです。私たちみんな、この小説の中の誰かになりえるんですよね。これまでは他人だと思っていた被害者や加害者が、この小説を読んで、自分の延長線上にいると感じてもらえたら、それで、読んだあとに見える世界を少し変えられたら、うれしいですね。

   ◇

 『生皮』を読んだ性被害者からは、「フラッシュバックして辛かったけれど、読んでよかった」という感想が多く寄せられたという。「咲歩をなんとか救いたい」と祈る思いで書いていたという井上さん。この群像劇には咲歩を追い詰める人間だけでなく、彼女の痛みを想像し、寄り添い、連帯する人間たちも描かれている。そして、そのどちらの人間も私たちの内に存在していることに気づかされる。