『8番出口』のピンポンは、なぜ主人公に聞こえないのか?
記事:白水社
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『ホラー映画のサウンドスケープ』のページ番号は、「00:01:88」のようにビデオのタイムコードの形で刷られています。本を一本のテープに見立てたためです。『8番出口』を論じた節は、第三部第二章「リミナルスペースの音景/夜のなかの夜」のなかに収録されています。
この節を読むには、音の置き場所をあらわす二つの用語を押さえておくと便利です。
ダイエジェティック音は、物語の世界の中で鳴っていて、登場人物にも聞こえている音のこと。
ノンダイエジェティック音は、劇伴のように観客にしか聞こえない音のことです。
映画の冒頭、地下鉄の構内で鳴る盲導鈴は前者で、主人公も観客も同じ音を聞いています。ところが主人公が地下通路のループに迷いこむと、盲導鈴は音程を変えて後者の側へ移ります。主人公の耳には届かず、客席にだけ鳴り続けるのです。
著者はこのずれを、ボルヘスの言葉を借りて《夜のなかの夜》と呼びます。歪んだ音が私たちの側で鳴っているのなら、虚構の中にいるのは私たちのほうかもしれない。
以下、本文からお読みください。
リミナルスペースが「変になじみがある」というのは、私たち観客に不安だけでなくメランコリーも同時に引き起こすもので、もちろん音楽においても同様の効果が生み出されている。
バックルームに影響を受けたゲームの映画化作品『8番出口』(川村元気監督)を例にとろう。出勤中のある男(二宮和也)は電車を乗り換えて駅構内を歩く。恋人と電話しながら構内を歩くうちに気づくと自分以外に人はいなくなり、見覚えがない(がどこにでもありそうな)地下通路を彷徨うことになる。地下通路はいくら進んでも永遠にループし、そのつど何らかの異変があったりなかったりするのだが、男は異変を見つけることでこのバックルームを攻略しようとする。
映画『8番出口』予告
男が新たなループに入るとき、730ヘルツと581ヘルツ付近(F#とその下のDに近い)による、たった二音のモチーフが流れる。視覚障害者用の聴覚的誘導音(盲導鈴)を彷彿させるこのモチーフは、日本で電車を利用する人にとって、あまりにも馴染みのあるサウンドマークであり、聴覚的に「変になじみがある」空間を生み出す演出に貢献している。
1976年に点字図書館などからはじまって徐々に全国の駅構内にまで設置されるようになったピンポン音は、770Hzと640Hzの組み合わせで短三度に近い音程だが、『8番出口』では長三度にアレンジされている。また、一部のモデルのエレベーターでも長三度のチャイムが到着音に設定されている。
たとえば、原作ゲームの異変モデルの一つとなった清澄白河駅構内の三菱エレベーターはGとその下のE♭による長三度のチャイムが採用されている。中田ヤスタカによるこの日常音の異化は、おそらく、ノンダイエジェティック音楽として歪んだ「出口」を象徴している。映画の冒頭(普通の地下鉄の描写の場面)からすでに効果音として(普通の)盲導鈴は何度も流れているので、途中で、音の異変に私たち観客も容易に気がつくだろう。男が通路がループしていることに気がついて立ち止まり、カメラが「出口8」の案内を大きく映し出す場面で初めてこの異化された盲導鈴の音楽が挿入される。
この音楽はダイエジェティック音がある地点からノンダイエジェティック音にすり替わり、それと同時に登場人物も物語内の物語(リミナルスペース)へと移動する。
図に示したように、最初、物語と音楽は同じレイヤー(地下鉄構内=ダイエジェティック音)に同居しているが、登場人物がリミナルスペースに入り込むと、音楽はリミナルスペースについてくることなく、私たち観客と同じ世界(ノンダイエジェティック)へと離れて距離を置く。だが、これはただの劇伴音楽ではない。先ほどまで登場人物と同じ視点で聴いていた音楽とそっくりだからだ。先ほどまで普通だったピンポン音は、今ではまるでリミナルスペースを経由してから私たちのところへ流れているように、歪んできこえる。しかしながら登場人物にこの音は聴こえていないようなので、ノンダイエジェティックな音なのだ。
私たち鑑賞者が住む世界は、もちろん物語世界(ダイエジェティックな空間)よりも上位のレイヤーにある。しかしここでは、なぜかリミナルスペースと同じレイヤー上に現実世界(ノンダイエジェティック音)が存在するように聴こえる。それゆえ、ボルヘスが言うように、「観客であり読者であるわれわれが虚構の存在であることもありえないことではない」と思わせるのだ。この聴覚上の錯覚こそが《夜のなかの夜》だ。「最悪の〈幽霊〉はすでに内側にいて、本当の〈恐怖〉はすでに内側にある……(それ以上に最悪なことはありえない)」。
【本書 第三部第二章「リミナルスペースの音景/夜のなかの夜」188〜190ページより】
註と、音源を再生できるQRコードは省略しました。
本書では『8番出口』のテーマ曲をQRコードからその場で聴くことができます。
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