アニメ【推しの子】主題歌、YOASOBI「アイドル」の衝撃──『歌詞のサウンドテクスチャー』から考える(前半)
記事:白水社
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【YOASOBI「アイドル」 Official Music Video】 日本語楽曲ではじめてビルボード・グローバル・チャート“Global Excl. U.S.”にて1位獲得、Apple Musicデイリーチャート“トップ100:グローバル”で1位獲得。YouTubeでのストリーミング再生も史上最速で1億回を突破。
かつて「売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだ」と言った音楽家がいた。この皮肉に反して、私が思うに、売上は評価の材料としては少なくとも検討に値する。
素晴らしい芸術作品とは何か、ということを私たちは好き勝手な尺度で語りたがるが、売上ほどシンプルにわかりやすい尺度は、なかなか見当たらない。
売れたものが良いものだ、という信じ込みはひょっとして間違っているにしても、芸術家を崇めるとき語られがちなもっと恐ろしい逆向きのバイアス──売れていない作品のなかにこそ良い作品がある──も、まったく同じことが言える。これはまあ、たぶんゴッホ神話と言いかえて良いと思うが、たとえ逆向きにではあっても、それも売上をひとつの尺度として採用していることに違いはないからだ。
私は前作『やさしい現代音楽の作曲法』で、いわば売れる見込みのない音楽的手法を愉快に解説したわけだが、今作『歌詞のサウンドテクスチャー』では、一変して、序章で大ヒットSF作品やYOASOBI「夜に駆ける」に触れるところから始まる。
そういうわけで、ここでは、近年の日本で最も「良い曲」だと言えるかもしれないYOASOBI「アイドル」とその英語バージョン「Idol」をとっかかりとして、本書で述べたことの風味というか香りのようなものを簡潔に豪快に感じてもらおうと思う。香りは嗅いで良いですが、食べるためにはお金を払ってください、というわけだ──これは煙を豪快に路上に排出することで客を誘き寄せる焼肉店の手法と同じですね。
本書『歌詞のサウンドテクスチャー』で注目しているのは、作詞家が何を狙ったかではなくて、どのように聴こえるか、ということだ。
BTSが歌う「Permission to Dance」というフレーズに作詞家(エド・シーランだと思う)の狙い──そのフレーズをアナグラムにした「Stories on Pandemic」という裏設定──があるからといって、そこに音響的な効果は期待できない。それはつまり、リスナーは、「Permission to Dance」というフレーズを聴いたところでパンデミックを思い浮かべて涙したりはしないだろう、ということだ。
ざっくばらんに言えば、これが、本書で提案したかったことのほとんどすべてだ。
歌詞カードを読み込むのではなく、音楽を聴いてみる、というだけのこと(だからといって、聴いたときの印象とは関係ない仕掛けを作詞家が取り入れることを否定しているわけではまったくない)。
【BTS (방탄소년단) 'Permission to Dance' Official MV】 「Permission to Dance」という曲名は、「STORIES ON PANDEMIC」や「NO PANDEMIC STORIES」のアナグラムになっている。
たとえば「アイドル」に何度も現われる/ai/の韻がリスナーに思い起こさせるものは容易に想像できる。もしもリスナーが『【推しの子】』のファンだったとしたら、この韻が、アニメや漫画、そしてこの歌の直接的な「原作」となったスピンオフ短編小説『45510』の物語とどのように関連しているか、すぐさま結びつけて理解して連想するであろう。つまり/ai/は、愛(love)であって、輝く瞳(eye)であって、星野アイであって、アイドルであって、私(I)であるのだ、という風に。
しかし、/ai/の裏返しの韻──/ia/──となると、どうだろう? 印象の強度は、もう一歩下がるだろう。/ai/と/ia/は構造上あきらかに対立しているように配置されているのだが、実際に聴いたときにこれが裏返しだと気づくかどうかはわからない。
ここで挙げたシンプルな二つの韻は、たとえば歌詞の句末の「メディア(/ia/)」や「なんてない(/ai/)」で踏まれる韻のこと。
このパリンドローム(回文配列)は、実際に聴覚上対立しているかはわからない。/ai/と/ia/は見た目はよく似ていても、音節として対応してはいないからだ。
/ai/が基本的に二重母音(=一音符)で歌われるのに対して、/ia/は/i.a/というふうに独立して二つの音節を形成する。たとえば、歌詞のなかに現われる「メディア」は/me. di. (j)a/のように分けられるし、英語の「media」も三音節で/míː. di. ə/のように分けられる。
「アイドル」中間部に二回登場するラップパートは、句末でそれぞれ/ai/と/ia/で韻を踏むことで構成上は明確に対立しているし、「はいはい」「イヤイヤ」といったフレーズがそれを導入している。つまり、「はいはい=/ai/」から導かれて三連符でラップされる/ai/の韻と、「イヤイヤ=/ia/」から導かれてBPMが突如落ちてラップされる/ia/の韻のことだ。
しかし「アイドル」の双子の妹、つまり英語で歌われるバージョンの「Idol」では/ia/はわりと削られていて、どちらかというと両パートともに/ai/に寄ってしまっている。作詞家にとって、この/ia/は特に英語歌詞で優先すべき音響だとは見なされなかったのだろう。
はい、ストップ。これらの技巧を価値づけへと直結しないように。つまり、この曲の二つの韻/ai/と/ia/の対立は楽曲を構成する単なるパーツにすぎない。
「アイドル」の韻がパリンドロームになっているからといって、それがこの楽曲を素晴らしいものにするわけではないし、逆に「Idol」ではそれがやや失われているからといって、これが駄作というわけではない。
「Idol」は英語で歌われているが、ところどころで英語の音節性が失われている。つまり、英語っぽく聴こえない。たとえば、二音符で単独した二つのモーラとして歌われる「you」や、逆に二音節を無理やり一音符風に歌われる「any」「so, what」などが挙げられる。しかし、だとしても大したことではない。
まったくもって音節性や英語独自のストレス(強勢アクセント)が失われることは悪いことではない。そのことによって、日本語的な、もしくはモーラらしい等時性の響きが生み出され、外国語話者のリスナーにとってはこの歌に日本特有のアイドル性を感じる可能性もあるからだ。
【YOASOBI / Idol (「アイドル」English Ver. )】 たとえばサビの部分の歌詞〈That emotion melts all hearts〉は、〈誰もが目を〜〉という日本語版の歌詞と似た響きになる(空耳できる)ように翻訳されている。
しかしまた、日本語の歌詞の響きを持っていながら英語で歌われる、ということも特別なことではない。なぜならこれまでも、音楽家はある歌詞を別の言語に翻訳して歌う場合、意味と響きの間で常に迷いながらも、できればその両方を殺さないように願ってきたのだから。
だからこそ、リッキー・マーティンの「Livin’ la Vida Loca」は郷ひろみによって「燃えてるんだろうか」になった。響きに関してはOK。しかし、そうすると意味の辻褄合わせのために原曲の「rain」は「sun」へと変えざるを得なかった。
できれば、音節の音響的な特徴──たとえば両唇音や閉鎖音といった調音の類似性──を合わせたいが、すべてを実現することはできない。
YOASOBI「アイドル」では、「見えそうで見えない秘密は蜜の味」の両唇音/m/による韻は英語で諦めざるを得なかったが、かわりに音節を少しばかり無視して/s/による韻に置き換えることができたし、「味」と「honey」を似せることもできた。
つまり──。
落ち着いていこう。過剰に騒ぎ立てることはない。短絡的な価値づけは、街を歩いている素敵な青い目とブロンドのアメリカ人に見惚れて、すぐさま、「アメリカ人は(アメリカ人であるがゆえに)美しい」と判断するようなものだ。
さて、ここからの考察は次回へ続く。
【著者動画:本ができました !!!! 『歌詞のサウンドテクスチャー』という本です。】