世界を見た幕臣は、なぜ「逆賊」とされたのか――村上泰賢『決定版 小栗上野介』
記事:平凡社
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徳川幕府は幕末に構造改革ともいうべき数々の近代化政策を実行し、たとえば桂小五郎(木戸孝允)は、幕府が歩兵・騎兵・砲兵の三兵の洋式編制とフランス人教官による陸軍伝習を進めていることに、「関東の政令一新し、兵馬の制頗る見るべきものあり」とその驚きを語り、将軍徳川慶喜を「神君家康公の再来か」と讃えました。
しかし、実際に幕府の近代化政策を提言し、周囲を説得して実現に持ちこんだのは、小栗上野介忠順を中心とした開明派と言われる幕僚でした。15代将軍になってからのほとんどを京都での政争に追われていた慶喜には、江戸の幕臣たちによる近代化を直接指揮できる知識や経験、力量はありません。
小栗は遣米使節に抜擢されて渡米、帰国後は外国奉行、町奉行、勘定奉行(勝手方)、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行など幕府の要職を歴任しました。また特に経済に明るかったことから、幕府財政の要を握る勘定奉行に4度も任免をくりかえされて、倒れようとする幕府を支えたのです。
こうした小栗による近代化への改革提言は、彼が遣米使節目付に抜擢され万延元(1860)年に渡米した際の見聞が活かされてのもの、と言えます。
小栗はこの時34歳で世界一周をして帰国し、渡米の見聞をもとに帰国後の8年間、幕末の日本の構造改革に奔走します。実施した近代化の業績は横須賀造船所建設、洋式陸軍制度の導入による軍制改革と訓練、横浜仏蘭西語学伝習所開設、日本初の株式会社設立を指導、鉄鉱山開発、滝野川大砲製造所建設など多岐にわたります。
また郵便・電信・ガス・鉄道などの設立を提唱しました。のちに明治維新から大正期にかけて政治、財政、外交で多くの功績を残した大隈重信に、「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と言わしめたほどの改革でした。
なかでも横須賀造船所の建設は彼の業績の筆頭に挙げるべきもので、ここから日本の近代工学が育っていった日本産業革命の地、と言っても過言ではありません。
横須賀造船所の第一の特徴は、船だけを造るのではない、あらゆる工業製品を造る総合工場であった、ということです。そのモデルとなったのはワシントン海軍造船所でした。
第二の特徴は、初めから本格的な蒸気機関を原動力に用いた工場、ということです。それまで日本では川の落差を利用した水力に頼っていました。横須賀造船所は初めから水力に頼らず、蒸気機関を原動力として設計し設立された近代工場でした。
第三の特徴は、教育機関として人づくりをしていたこと。モノづくりの原点は人づくりです。慶応2年から技術伝習学校(のち黌舎)で造船技師・職工を育て、のちに海軍機関学校を設立して船の設計図も書ける機関将校を育てました。
第四の特徴は近代経営の方式が定着したこと。埋め立て工事による土地造成から仏人技師の労働態様に合わせて日本人が働くことで、定時労働、日曜休日のほか、月給・年功給・技能給・複式簿記などの近代サラリーマンの原型が定着し、富岡製糸場にも伝わってゆきました。
横須賀造船所は明治後期から海軍専用となって、民間の船や人の出入りを制限したことから、横須賀=軍港のイメージが定着してしまいましたが、建設された当初は小栗が日本近代化の夢を託した、重要な総合工場でした。
小栗が帰国後、嵐のような攘夷運動の風潮のなかで、「外国の良い所は、断然これを取り入れるべし」と臆せず建設を主張し続けた提議が実って、その4年後に横須賀造船所の建設が決定されます。しかしこれに対してフランスの技術協力を快く思わないイギリス公使パークスは、「幕府の軍備強化のためだ」と薩摩藩を通して反対させます。幕府内にも資金がない、不要不急だ、と小栗の趣意を理解しない反対論が渦巻きました。
幕府をはじめ各藩はすでに外国から洋式船を購入し使い始めていて、故障が生ずるたびに外国まで曳いて行って修理するしかありませんでした。これに対し当時勘定奉行だった小栗は「時間も経費もかかる。どうしても国内に製造修理の場所が必要だ、資金は勘定奉行の責任で何とか工面する」と説得しました。
その後、完成した横須賀造船所は日本近代工業化の基盤となって、日本各地にその種子が広まりました。
たとえば、日本の生糸生産のモデル工場となった富岡製糸場の木骨レンガの建物群は、横須賀造船所の建設を指導していたフランス人建築技師たちが横須賀造船所の各建物をモデルに、「50日間で」という条件をクリアして設計し、横須賀から派遣された技師バスティアンの指導で明治5(1872)年に完成しています。建設にあたっては幕府が横浜に設けた仏語学伝習所の卒業生が富岡に派遣され、横須賀の日本人大工十数名も同行し、フランス人技師と上州の職人の間を仲介して工事が進められました。
その富岡製糸場の製糸の技術がモデルとなって日本全国に伝わり、生産・輸出で得た生糸の代金で購入した軍艦や大砲が、日露戦争の戦線を支えました。東郷平八郎が小栗の遺族を招いて、「日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」と礼を述べたのも、自然な流れと言えるでしょう。
しかし、明治新政府が始めた学校教育では「日本の近代化は明治以後で江戸幕府の政治は遅れた封建政治だった」という前政府否定の歴史教育を根底にして、日米修好通商条約を不平等条約と位置づけ、その改正に苦心したという苦労話に焦点をずらして教えられました。また、遣米使節の行程や業績も咸臨丸の国威発揚話にすり替え、こうした幕末における近代化の歴史の継続性はほとんど認知されることなく、近代化が突然実現できたような歴史が語られてきたと言えます。
小栗は明治維新による幕府解散で勘定奉行を免じられると、移住帰農を決意して家族と知行地の上州権田村に移りますが、わずか2ヶ月後に西軍によって無実の罪名で取り調べもなく烏川の畔で斬首されました。
そして明治以降の歴史教育は小栗の業績をないものとし、むしろ逆賊扱いで教科書に載せないようにしてきました。
はじめに――隠されたもう一つの歴史
第一章 日本人初の世界一周――四万キロの旅
第二章 幕末期の構造改革
第三章 経済による立て直し
第四章 上州に夢をはせて
終わりに
あとがき