アニメ【推しの子】主題歌、YOASOBI「アイドル」の衝撃──『歌詞のサウンドテクスチャー』から考える(後半)
記事:白水社
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【TVアニメ【推しの子】ノンクレジットオープニング|YOASOBI「アイドル」】
前回の記事で、拙著『歌詞のサウンドテクスチャー』に書かれた論考の香りを嗅いでいただいた。これが焼肉店が外に煙を排出することで客の腹を鷲摑みにする手法と同じだということも書いた。そして、とっかかりとしてYOASOBIの爆発的ヒット作「アイドル」について考察した。
とはいっても、私はほとんど「落ち着いていこう」という程度のことしか書いていないので、アニメ『【推しの子】』との物語の関連が指摘され尽くされている昨今において読者の満足を勝ち得た実感はない。とはいえ私はやっぱり短絡的な価値づけはせず、慎重にあるべきだと思う。
そこで、今回は同じくYOASOBIの「アイドル」を聴きながら、歌詞分析において落ち着いていくべき必要性について考えてみたい。歌詞の物語性に没頭し、アニメと歌がどのように共鳴しているかを考察するのは、まだ早い。
なぜなら、これは『歌詞のサウンドテクスチャー』のかなり最後のクライマックスに書いていることなのだが、歌詞の音と意味は時として衝突するからだ。
言葉の意味はある意味で私たちの記憶を「改ざん」する恐ろしいものなので、もしも歌詞の響きについて考察したいのならば、物語の背景を意識しすぎてはいけない。文化人類学者のレヴィ=ストロースが言ったように、音と意味の衝突は、別の新たな「小さな神話」を生み出すかもしれない。これを見落とさないためにひとまずここで言えるのは、「落ち着いていこう」ということだ。
手はじめに、歌詞それ自体から少し離れ、ボーカルの加工について考えてみよう。『歌詞のサウンドテクスチャー』では、歌詞とボーカルの音色というものはほとんど同じで、その境界線は曖昧だということについても強調している(くわしくは本書を読んでほしい)。
YOASOBI「アイドル」の最後のパートにおけるボーカルのオートチューン性は、物語に貢献しているだろうか?
ここで言うオートチューン性とは、ボーカルの極端に平坦な加工のことであって、アンタレス社の「Auto-Tune」によるボーカル補正だけを指しているわけではない。それがセレモニー社のMelodyneであろうが、WAVES社のWaves TuneであろうがCubaseのVariAudioであろうが、どうでも良い。ひとまず、この手法が物語に影響を与える前提として、私たちの耳が、Perfumeから「初音ミクの消失」までを経由していると仮定して話を進めよう。
ボーカル補正にリスナーが「虚構性」を見いだす傾向は、ソニー・ミュージックによる「THE FIRST TAKE」のヒットと、twitterでの「ピッチ補正」のトレンド入りからも窺い知れる。「THE FIRST TAKE」というタイトルのミスリードによって、(音楽家以外の)リスナーはこれが純粋な一発録りであって、当然ピッチ補正されていないものだと思い込んでいたわけだ。
【YOASOBI - 群青 / THE FIRST TAKE】 YOASOBIは、ボーカルの幾多りらと作詞・作曲・編曲のAyaseによる音楽ユニット。
音楽家にとってはどうでも良いと思う問題であっても、リスナーにとってはそうではない。客が気になるのはアイドルが無加工で(もっと言うとノーメイクで)写真を投稿しているか、または整形して私たちを騙していないか、ということだ。
YOASOBIの「アイドル」のボーカル加工は、「THE FIRST TAKE」に比べると、より強く、つまりピッチの揺れをほとんどまったく感じられないようにされている。YOASOBIの他の楽曲と比べても、「アイドル」の最後のパートのオートチューン性は高い。
AyaseはボカロPであって、オートチューン性に懐疑的な作曲家ではないだろう。インタビューで彼は、幾田りらに「とにかくわざとらしく」歌ってもらうことを要求したと語っている。そして確かに、「アイドル」の特にラストのオートチューン性はアイドルの虚構性・偶像性を演出できていると思う。
ただし、歌詞の音と意味は常に寄り添っているわけではない。時に衝突して、意味を変化させたり、また音響の記憶を「改ざん」したりする。
この曲のラストは歌詞の物語と音響が衝突している。このパートでは、アイドルの(数少ない)嘘ではない言葉が表現されている。それはストレートな「嘘じゃない・愛してる」のフレーズに集約されて終わるのだが、ボーカル加工はむしろここで最も強調される。
音響を物語に寄り添うようにするためには、むしろここで加工は控えめにするのが定石だろう。
【YOASOBI「アイドル」 Official Music Video】 うたのはじまりから3分11秒後に「嘘じゃない・愛してる」と歌われて終わる。
YouTubeにアップされているさまざまな人の解説やリアクションを見るかぎり、漫画を読み込んだり小説やアニメの物語に深くコミットしたりしている人にとっては当然ながら、この衝突においては意味性が勝っているようだ。しかしながら、漫画やアニメをまったく知らずにこの曲を聴いた人は、ラストの「嘘じゃない・愛してる」というフレーズを字義通りに受け取れず、むしろ逆に、アイドルの虚構性を強調したフレーズとして受け取るかもしれない。
この最後のフレーズは、ちょうど真ん中で/ia/を/ai/がサンドイッチにしている。つまり、「ない・愛(/na.i.a.i/)」は/ai/に包まれる/ia/である。かつて言語学者のロマーン・ヤーコブソンは、同じく/ai/の「こだま脚韻」による「I LIKE IKE」というフレーズを、「愛されている対象によって包まれている愛する主体という類音法的イメージ」と形容した。
私の個人的な印象を言うと、この最後のフレーズで感じるのはむしろ、/ai/という韻の解体だと思う。たぶん、それまで提示されてきた音節/ai/が最後の最後でモーラ単位/a.i/に分解されてしまったからだ。なんというか、音響的なイメージが解体されて、ただ単に言葉の意味内容としての「愛してる」だけが残されてしまったようだ、というのが私のなんとなくの感想。
「歌詞の音と意味が衝突している」というのはこういう状態のことを指している。そして、歌詞カードを文学として深く読み込んだり、その背景や作者を深く考察するにつれて、音響の印象は「改ざん」されていく。つまり、最後のフレーズは音響的な印象を超えて、真の「嘘ではない愛」を示している、と感じられるようになっていくということだ。
このように音と意味が衝突したとき、(ベンジャミン・リー・ウォーフの言うように)私たちはそれに気づかないのか、もしくは(レヴィ=ストロースの言うように)別の小さな神話が生まれるのか、ということを本書『歌詞のサウンドテクスチャー』では考えた。そのためには、そもそも歌詞の音ひとつひとつが、私たちにどのような印象を与えるかを考察しなければならない。
さて、この続きはどこから手をつけるか。
『歌詞のサウンドテクスチャー』では、歌詞をひとつの音の織物に見立てている。そして、いくつかの分析手法を提案している。
たとえば「アイドル」と「Idol」のように──ボーカルも楽曲もアレンジも同一で──歌詞だけバージョンが違うものを「一卵性双生詞」と形容して、英語と日本語の歌詞をリズム単位で比べた。そのためにソノリティ・スコアも活用できる。これは、音声学で言うところの「聞こえ」というエネルギーの高さを縦軸に表わしたスコアであって、一卵性双生詞の音響構造がどのように異なっているかを理解するのに役立つだろうと思う。
ほかにも、うたの分析に「音響論的転回」をもたらすためのツールを提供した。
言語リズム、音象徴やオノマトペ、意味のわからない音声詞……ここで述べたように、意味と音が対立し、長い戦いのすえに音が意味に勝利するような場合(本書ではそれを「コンダラ化」として説明した)についても、くわしく解説している。
一つの音節や音素は、歌詞の「物語」とは別に、何を思い起こさせるのだろうか。また、歌詞以外のものたち(和声や楽曲のアレンジやボーカルの歌い方のクセ)と、どのように相互に影響するだろうか。
それらはぜひ、本書を買って目撃してください。
木石 岳