あまりにも人間的な「聖人」の姿――B. マリノフスキー『マリノフスキー日記』
記事:平凡社
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「近代人類学の祖」ブロニスワフ・マリノフスキーは、1884年、ポーランド南部の古都クラクフに生まれました。ヤギエウォ大学で物理学と数学を学び、哲学、民族学を経て、やがてジェームズ・フレイザー『金枝篇』との出会いから人類学へと惹かれていきます。ロンドン・スクール・オヴ・エコノミックスで学んだ彼は、文献だけに基づく研究に限界を感じ、自ら現地へ赴く道を選びました。第一次世界大戦期、オーストリア国籍の「敵国人」でありながら、偶然にもニューギニアでの調査を許され、マイルー島、そしてトロブリアンド諸島で長期のフィールドワークを行います。現地の人びとの生活のただ中に入り込み、その視点から社会を理解する――のちに「参与観察」と呼ばれる方法は、ここから確立されました。代表作『西太平洋の遠洋航海者』は、20世紀人類学の出発点となった不朽の名著です。
ところが本書『マリノフスキー日記』を開くと、そこにいるのは、冷静沈着な観察者でも、理想化された聖人のような学者でもありません。彼の急死後、研究室で発見された小さな黒いノート。母語ポーランド語で密かに綴られていたその私的記録には、南太平洋の調査地で揺れ動く、あまりにも人間的なマリノフスキーの姿が刻まれていました。孤独、病、睡眠不足、性的欲望、恋人への思慕、現地の人びとへの苛立ちや嫌悪、研究への野心と自己嫌悪。名著の背後で、調査者は何を感じ、何に傷つき、何に耐えていたのか。美しい民族誌という「舞台」の裏側で、学問はいかに混沌とした身体と感情のなかから生まれていたのか。本書はその現場を、驚くほど赤裸々に読者の前へ差し出します。
1967年の刊行時、本書は人類学界に大きな波紋を投げかけました。偉大な学者の偶像崩壊なのか。植民地主義的な差別意識を告発する記録なのか。研究者の人格と学問は切り離せるのか。民族誌の客観性とは何か。刊行以来、本書はそうした問いの中心にあり続けてきました。しかし、文化人類学者・奥野克巳さんの解説「百年後の『マリノフスキー日記』」が示すように、いま本書を読む意味は、単にマリノフスキーを断罪することでも、スキャンダルとして消費することでもありません。むしろここには、他者を理解しようとする営みの困難さと、かけがえのなさが刻まれています。感情を排した無菌室ではなく、迷い、不快感、欲望、不安、失敗を抱えた身体を通してしか、フィールドワークは始まらないのです。
「現場に行くこと」の価値があらためて語られ、ビジネスの場でもフィールドワークという言葉が日常語となったいまこそ、本書は新鮮に響きます。異なる文化や価値観を前にしたとき、私たちはどこまで相手を理解できているのでしょうか。理解しようとする自分自身の偏見や弱さに、どう向き合えばよいのでしょうか。人類学の古典でありながら、日記文学としても、知の現場をめぐるノンフィクションとしても圧倒的な一冊です。
(文=平凡社ライブラリー編集部)
まえがき ヴァレッタ・マリノフスカ
序文 レーモンド・ファース
第一部 1914―15年
第二部 1917―18年
訳者解説
解説 百年後の『マリノフスキー日記』 奥野克巳
現地語索引