自分の傷つきと他者の傷つきを大切にするには──竹内伸『世界はトラウマでできている』より
記事:筑摩書房
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冒頭から本書のテーマを覆すような話をしますが、もし本当に私たち一人ひとりが、誰かの感じ方とそれに伴う感情を大切にすることができるならば、「トラウマ」という言葉は必要ありません。
人はあたりまえに、日々のさまざまな出来事のなかで、いろいろなことを感じます。意外な出来事に驚いたり、思っていたものとちがう展開にショックを受けたり、変化に戸惑ったり、不安に怯えたり、喪失を悲しんだり、ひどい仕打ちに怒ったりするわけです。
目の前にいる人がこのように感じているときに、誰もが「そうだね、そう思うよね。そう感じて当然だよ」という思いでそこにいられるならば、わざわざ「トラウマ」などという言葉を使い、あたりまえにある傷つきを特別なもののように語り、際立たせる必要はありません。
しかし残念ながら、いまの世の中は、このようにはなっていません。
私たちにとっては、目の前の人がどのように思い、どのように感じているかをそのまま認めることが、なぜか、とてもとても難しい。
相手の気持ちを容易に無視してしまったり、そのように感じるのはおかしいと言わんばかりに否定してしまったり、ということが日常茶飯事です。
「なぜか」と書きました。その理由を紐解くうえで、私たち人間が傷ついたとき、私たち自身にどのようなことが起きるのか、どのように身の回りに起こることをとらえるようになり、どのように振る舞おうとするのかについて理解することは、その一助となります。
わかりやすい背景をひとつ挙げるならば、戦争があるでしょう。戦争によって家や街が破壊されたり、目の前で人が死んだり、というあからさまな恐怖体験があり、そこで傷ついた人々がいます。
戦争で傷ついた人々は、口をつぐんでしまったり、ふさぎこんでしまったり、つらい記憶を思い出さないために仕事などに没頭するあまり身の回りの人々との関わりを疎かにしてしまったり、不機嫌になってしまったり、緊張を和らげようとお酒に頼った結果、たがが外れて怒鳴って暴れてしまったり、傷つく前とは異なるさまざまな言動をするようになります。
傷ついた人のこのような言動によって、さらにその周囲の人々も傷つきます。特に戦争のような「大義」があるものの場合に、そこで傷つくことは認められづらくなります。
このような潜在化した傷つきが広がるなかで、あたりまえに傷つきたくないと思う気持ちが強まっていきます。傷につながるものを避けるようになり、その結果、人が傷つくということ自体が回避の対象となってしまいます。
その回避によって、人が傷つくことはあたりまえとは見なされないようになり、人が感じていることが過小評価され、否認され、ないことにされるようになりました。
このような流れの中で、「それでも人は傷つく」ということがあたりまえであることを取り戻すために、仕方なく、やむをえず、「トラウマ」という名前をつけ、特別なものとして際立たせ、世の中に認知させようとしているのが今の時代だと言えるでしょう。
私たちの目標は、「トラウマ」がすべての人に理解されることです。
そしてその先には、「トラウマ」という言葉がなくても、あたりまえに、私たちは傷つく存在であり、さまざまな傷を抱えながら生きているということを、お互いに理解し、認め合い、受け入れる世の中が来てほしいと思っています。
私たち人間が傷ついたときに何が起こるか。
「トラウマ」の名のもとにさまざまなことがわかってきました。厳密には、もともとわかっていたはずのことを、認めようとしない人たちに認めさせるために証拠を集め、少しずつ無視できないよう積み重ねてきたというほうが適切かもしれません。
本書では、「トラウマ」と呼ばれるものをわかりやすく説明します。そのうえで、さまざまなところで見え隠れするトラウマに迫り、傷ついた私たち人間の振る舞いを紐解きながら、私たちがどのように傷を認めていけるか、手がかりを見つけていこうと思います。
筆者は約25年前、現在の国立成育医療研究センターの前身である国立小児病院というところで、精神科医として学びと臨床を始めました。そのときから、トラウマとその治療という枠組みは、常に身のまわりに、いわば前提としてありました。
臨床では、ある患者さんの症状として現れているもののもとにある、その患者さんの抱えている怖さを意識します。この患者さんはこれまでのどのような経験によってその怖さを感じ、またその怖さが残ってきたのか。こうしたとらえ方が、日々の臨床の基本にありました。
このようなとらえ方自体は、そもそも精神医学としては、それほど珍しくなかったはずのものです。ですが、「EBM(Evidence-Based Medicine =エビデンスに基づく医療)」という考え方が大きく入ってきはじめた当時の精神医療の現場では、決してメジャーではありませんでした。
こうした患者さんの症状のとらえ方が、自然とトラウマ治療と結びついているという現場は、非常に稀なものでした。そこでいわば「トラウマ・ネイティブ」として育った精神科医である筆者は、もはやレアケースを通り越して、「異端」とすら言えるものでした。
15年、20年が経ち、磔にされ火あぶりになることはおそらくなくなりましたが、まだまだ精神医療の世界では、トラウマ治療は片隅に追いやられています。筆者は大変ありがたいことに、恵まれた環境で臨床を始めることができ、その後も経験を積み重ねていくことができました。
筆者はこれまで、一般の方に向けての講演などは控えてきましたし、メディアなどにもほぼ露出してきませんでした。
臨床の現場で、いわゆる患者さんとなっている方に対しては、お一人お一人と、その場その場の話の流れのなかで、その方に必要だと思われることを、その方のタイミングに合わせてお伝えしてきています。
しかしながら本という形では、それができません。取捨選択を、読んでくださっている方にお委ねするしかないのです。
「これまでお会いしてきた、また今もお会いしている患者さんに、マイナスになってしまうのではないか」「こちらの予想しない形で、不適切にメッセージが伝わってしまうのではないか」そんな心配が先に立っていました。
その一方で、「トラウマ」という言葉が一般用語として広まり、子どもから大人まで幅広い領域の方々が使うようになってきました。心の傷を長く扱ってきた身からすれば、思わぬ方向に使われるようになったとも思っております。
そこで、精神科医や心理の専門家だけでなく、より幅広い方々に「トラウマ」、つまり私たち人間が傷ついたときのあたりまえのありようについて、あらためて知ってほしいと思うようになりました。
より多くの人が、自分の、そして他者の傷を認められるようになることで、より多くの人が生きやすくなるのではないかと思っています。
このような経緯で書いていますので、筆者がお会いしている患者さんでなくても、さまざまに苦しんでいる方にとって、残念ながら、この本が「ちょうどよく」届く保証はありません。
読んでくださる方にはお手数をおかけしますが、いまいちピンとこないところは、読み飛ばしていただきたいと思います。
そしてもうひとつ、患者さんとしてお目にかかった方に限らず、これまでの筆者の人生での関わりのなかで「傷ついた」という方も少なからずいらっしゃると思います。
その方々にとっては、このような本が出ること自体が、過去の傷を思い出すきっかけとなり、不快な思いをさせてしまったり、何かしら体調を崩させてしまうかもしれません。それにつきましては、お詫びするとともに自分自身への省察を続けていきたいと思います。
本書ではまず第1章で、私たち人間が傷つくというあたりまえのはずのことが、どのように扱われてきたか、トラウマやPTSDという言葉がどのように出てきたかを紹介します。
つづく第2章では、トラウマによって起きるいわゆる「症状」について、「DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)」に沿って解説します。
第3章では、トラウマと名付けられたことで研究が進みわかったこと、治療法が探究されわかったことなど、近年わかってきたトラウマの性質を深掘りします。
第4章では、私たちの傷つきやトラウマが認められづらい背景とともに、トラウマを認められなくなるプロセス、そして人を傷つけてしまうプロセスのつながりについて理解を深めます。
最後となる第5章では、傷が癒えていくプロセスについて、どのような難しさがあるかを含めて、紐解いていきます。
なるべく具体的な例を用いて解説するよう努めましたが、筆者が治療場面のなかで出会った患者さんの話は、まったく出てきません。たとえばこんな人がいるという話で出てきているのは、いかにもありそう、いそうなイメージを膨らませた完全な創作です。
それでも、自分のこと、あの人のことのように見えることが、多々あるだろうと思います。それは、人が傷ついたときに起こることは、それだけ多くの人に共通しているのだということを示しています。
筆者がこの本でいちばん言いたいことは、私たちは生きているなかでつらい経験をし、傷つくことがたびたびあるわけですが、そのつらい気持ちや感覚を、感じ終わるまで感じることができれば、それはいわゆる「トラウマ」とよばれるような形では残らないということです。
そしてもし傷として残っていても、その傷がついたときに感じていた気持ちや感覚を、あらためて感じ始め、感じ終わることができれば、その傷はなおるということです。
これを読んで、「なんだ、そんなわかりきったことか。なら、この本を読む必要ないや」と多くの人が思ってくださるなら、それに越したことはありません。しかし残念ながら精神医療や児童福祉に携わる人を含め、多くの分野でこのようなことは、なかなか考えられていないように思います。
私たちが自分の傷つきと他者の傷つきをあたりまえに大切にでき、そうした方々が大多数いるような世の中になることを祈っています。そして、この本がそのひとつの踏み石になれることを願います。
はじめに
「それでも人は傷つく」をあたりまえに/トラウマの理解のために/この本は「ちょうどよく」ないかもしれない/感じ終わるまで感じること
第1章 人は傷つく
「傷つく」の軽視/トラウマ元年/PTSD概念の広がり/診断名の登場/異常な状況における正常な反応
第2章 人が傷ついたとき起こること
DSMによる診断基準/DSM-5-TRの特徴/議論の的となるA基準/心の傷に大小はない/B基準=侵入症状/フラッシュバックとは/きっかけになるもの/C基準=回避症状/D基準=うつ状態/自分に責任を押し付けてしまうこと/全体としてうつ状態を呈する/E基準=覚醒度と反応性/睡眠障害/F基準=仮の区切り/G基準とH基準/解離症状/遅延顕症型
第3章 トラウマという名のもとに
心理療法への影響/再演/再演の例/否定的な自分観/ポスト・トラウマティック・プレイ/解離/感情は飴玉のように/恐怖条件付け/PTSDと脳の関係/ポリヴェーガル理論/進化と発達からわかってきたこと/感情から目を逸らす/EMDRの人間くささ/私たちの外界認識/世界線が変わる/集団のなかのトラウマ/トラウマ・インフォームド・ケア登場/浸透しないTIC/医療以外の現場/精神医学は変わるのか?
第4章 トラウマを認めたくない人たち
スモールtトラウマとは何か/なぜ私たちはトラウマを認めたくないのか/トラウマは擬態する/常識はなぜ保たれているのか/伝統や武勇伝/集団の都合/男性用トイレを例に/加害者の誕生/トラウマに触れると何が起こるのか/医療に潜むトラウマ/トラウマへのトラウマ/「正常」との線引き/時代とともに変わるもの/誰かのあたりまえは、誰かのトラウマかもしれない/明文化できないものを学ぶとき/被害者が加害者をかばうとき
第5章 心の傷が癒えるとき
何重にも絡まった糸/トラウマは克服しなくていい/人の「推し」を笑うな/思い残しと成仏/動物園の避難訓練/訓練の時間は終わらない/考えるな、感じろ/感じる者は救われる
おわりに