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辻堂ゆめさんが感動と興奮を覚えたアテネ五輪の「体操競技」 「将来の夢」と「将来」は別世界と認識

2004年、アテネ五輪男子体操団体の冨田洋之選手の鉄棒演技(C)朝日新聞社

 「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」

 言わずと知れた、NHKの刈屋アナウンサーの名実況である。2004年のアテネオリンピック、体操男子団体決勝。その最終種目・鉄棒でアンカーを務めた冨田洋之選手が、終末技の着地を決めたときのこと。

 小学6年生だった私は、テレビでこの瞬間を目撃し、深い感動と興奮を覚えた。ただし、世間一般の人とは少し違う形で。なぜなら当時、私は体操教室の選手コースに所属し、大会への出場を前提として、日々厳しい練習に励んでいたからだ。

 週4回、1日4時間。練習は入念な柔軟運動や筋トレから始まり、1分間の倒立などのルーティンをこなした後、それぞれの種目をローテーションで回る。男子は6種目、女子は4種目。とはいっても、体育館の広さの関係上、例えば男子の鉄棒と女子の段違い平行棒を同時に設置することはできない。だから大抵は1日に3種目を練習していた。

 小学校から帰った後、送迎バスに乗って教室へと向かい、17時過ぎに体育館に入って、ジュニアコースを教えているコーチたちに挨拶。すべての練習が終わって解散となるのは21時過ぎ。夕飯を食べて寝る頃には22時を回る。今振り返っても、小学生にしてはけっこうなハードスケジュールだ。自分は選手だという自負があったからこそ、耐えられた。

 それでも、アテネオリンピックをテレビで見ながら、はっきりと分かっていたように思う。あれは別世界だ、と。

 選手コースに所属しているとはいえ、自分にできる技は床でのロンダートバク転や、段違い平行棒や平均台からの宙返り下り程度のものだった。平均台でのバク転は練習していたが、なかなかコーチの補助なしでできるようにならなかった。当然、大会での成績も振るわなかった。教室の中ではできないほうではなかったのだが、通っていた教室自体が、県内では弱小に分類されるチームだったのだ。

 体操を本格的に習い始めたのは遅く、小4の終わりだった。小6の4月にジュニアコースから選手コースに格上げとなり、いくつかの大会に出場して、上には上がいることを知った。床でひねり宙返りを行う同学年の女子選手。平均台でブリッジやバク転を危なげなく決める5歳くらいの少女。小学校の体育の時間や教室内では胸を張っていられたが、所詮自分が井の中の蛙であったことを、痛いほど思い知らされた。

 体操は大好きだった。学校の体育館だろうがテニスコートだろうが、直線を見ると反射的に平均台に見立て、側転だの前方ブリッジだのを繰り出したくなるくらいには。百八十度開く両脚も、ブリッジをすると両手と両足がくっつくほど柔らかい腰も、自分の誇りだった。

 だが、オリンピックには絶対に到達できない。小中学生向けの大会で入賞することもまず無理だ。それなら自分は、いったい何のために、長時間に及ぶ厳しい練習をこなしているのか?

 小学生が夢見がちに思い描く「将来の夢」と、自分が実際に到達できる「将来」を、初めて別物として認識するきっかけとなったのが、アテネオリンピックのテレビ観戦だったように思う。

 体操はその後も、断続的に高校の途中まで続けたが、最終的には怪我が原因で引退した。大人になった今は、あくまで「趣味」という立ち位置に収まっている。時には当時の仲間とトランポリンで遊べる施設に行って、バク転や宙返りをすることも。今年1月に出産してからはまだ試していないが、いつか娘を一緒に連れていって、「トランポリンでバク転ができるママ」になるのが、今のささやかな夢だ。