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遠くに明滅する小さな光たち 翻訳家・東辻󠄀賢治郎

積雪に備え、ポイントの凍結防止用カンテラを置く=1968年、国鉄(JR)名古屋駅

 ふたつの光景を想起している。

 夏は瀬戸内の島に数泊して、魚釣りやら海水浴やらをして過ごすのが家族の恒例になっていた。ある晩、夕涼みがてら浜辺に来て、海に突き出た防波堤に腰かけてゆっくり進む船の灯りを眺めているとき、その向こうの水平線のうっすらとした暗がりに重なるように小さな輪が明滅するのが見えた。

 水平線の暗がりは対岸に見えている四国のはずだった。気がつくと視界の左右の2、3箇所、あるいはそれよりも多くの場所で、同じように小さな、ちらちらと明滅するかすかな光の輪が上がっては消えていった。それが対岸で打ち上げられている花火なのだと気がついたのは少し後のことだった。しかし、たしかにそうだとも思えなかったし、今でも確信はない。花火だったとしても音はなく、波の音のほかに聞こえるものはなかった。どこか遠い国の光景を見ているようだった——といっても、そのころはまだ海の向こうの世界はよく知らなかったのではあるけれど。

 もうひとつ、こちらはその何年も後の真冬の話。

 高校生のころ、電車で片道1時間足らずの通学をしていた。最寄りの駅は新幹線が停まる大きな駅で、帰路の電車が駅の近くにさしかかる少し前からポイント(転轍器)や線路が混み合ったガタガタと揺れる区間が始まり、そのあたりで目が覚めることも多かった。日の短かい季節になると、部活動を終えて帰りつくころにはすでに暗く、顔を上げると窓の外は青い夜の色に包まれていた。列車が進むにつれて、架線に沿って配置された白い照明の光が分かれて数を増し、その下で線路が分岐を繰り返しながら蜘の糸のように広がって、やがて10あまり並んだプラットフォームのどこかに吸い込まれてゆく、そんな場所で目にした景色。

 早朝だったのか夕刻だったのかよく覚えていない。時間の記憶がないのは、その日が一日中雪模様で、空から地上までずっと同じ灰色をしていたからかもしれない。そのとき私が見ていたのは、薄闇の中、雪で白く変わった地上に幾筋にもなって伸びてゆく黒い線路の先の方で、ちらちらと見えかくれしている橙色の光だった。そんなものを見るのは初めてだった。それは小さな炎のように見えたが、だとすればなおのこと現実ばなれした光景に思えた。

 あとで知ったところでは(誰かに教えられたのかもしれない)、それは線路の融雪用のカンテラの炎だった。ポイントの凍結を防ぐために油を燃やして線路を温めるもので、おそらく雪の多い土地であれば珍しくないものなのだろう。しかし私がいたのはひと冬にせいぜい一度か二度、数センチくらい雪が積もり、そのたびに子どもたちがおおはしゃぎをするような土地で、3年間の通学の間にそんな光景を見たのも一度か二度だった。

 場所も年代も違う、盛夏と真冬の2つの光景は互いに関係はない。無理やりに共通点を探せば、夜にしろ朝にしろ、それほど深くはない時間に熱源が発する光を遠くから眺めていたことくらいだ。ついでにいえばその光は、海あるいは雪、つまりは姿を変えた水の向こうで明滅していた。なぜそんなものの記憶が似たような場所に留まっているのかはよくわからない。鬼火とか、ウィル・オ・ウィスプ(will-o'-the-wisp)と呼ばれたもののように、何か人間の心理や想像力に訴えるものがあるのかもしれない。

 いずれにせよ、魅入らせるもの、という意味では正しく「お気に入り」の光景なのだろうとは思う。たとえば夜の雲の隙間に見えかくれする光とか、海に明滅する光といったものは、その後もやはり脈絡なく、少しずつ記憶の底に新たな層となって溜まりつづけていて、ときどきは良きにしろ悪しきにしろ、やがて何か重大なことを私に告げてしまうのではという不安を感じさせる。