なぜ巨大化?「王は天界へ」頂高めて裾野広く
古墳群の一角を占める大阪府羽曳野市は20年秋、研究者らを招いて連続市民講座を開いた。そこでは、いずれも斬新なアプローチが披露された。
まず、なぜこれほどに巨大なのか。5世紀、大王墓の規模は極限に達し、百舌鳥古墳群の大山(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)や古市古墳群の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵)の墳丘長は400メートル以上に及んだ。絶大な権威を見せつけるためというのが通説だ。
ところが、国立歴史民俗博物館の松木武彦教授の見方は少し違う。巨大化がエスカレートしたのは墳丘をより高くするためで、そこに亡き王を天に祭り上げようとした日本独自の思想を読み取るのだ。
「神とみなされた亡き王は天界に行くため、古墳の頂に葬られた。偉ければ偉いほど古墳は高くなり、そのためには裾野を広げて巨大にしなくてはならなかった」
中国など大陸部の古墓が地下に埋葬施設を設けたのち地上に高まりを築くのに対し、日本の古墳はまず土を地上に盛ってその中に石室を造る。したがって、必然的に被葬者は天に近くなる。「巨大化の要因は、当時の死後の世界観にあったのです」と松木さん。古墳の特徴も前方後円墳の形に加え、王を天に祭り上げる舞台としての機能を重視するようだ。
過酷な労働?庶民が飢えしのいだ「公共工事」
古墳には多大な労働力が投入された。そこにはどんなドラマがあったのだろう。
古代の巨大構造物に思いをはせるとき、私たちは権力者のもとで悲惨な労働を強いられる哀れな庶民の姿を思い浮かべがちだ。
だが、東海大の北條芳隆教授は、古墳造営には支配階級と被支配階級の利害や思惑の合致があったのでは、という。
「古墳時代は寒冷期で、この不安定な時期を政権は古墳造営で乗り切ったのではないか。それが日本列島のまとまりを維持させた。民衆にとっても、そこに行けば飢えずにすむ、というわけです」
いわば現代の公共工事みたいなもので、労働の対価は貨幣代わりに稲束で支払われたのでしょう、との見立てだ。とすれば古墳造営は、かり出された下々の民の血と汗であがなわれたとのイメージも、ずいぶんと様変わりしそうだ。
さて、大王の奥津城(おくつき)(墓所)といえば、古墳誕生時の3世紀からずっと奈良盆地だった。ところが、百舌鳥・古市古墳群でいきなり西の大阪平野南部に飛ぶ。その理由をめぐって王朝の交代や権力バランスの変化などさかんに議論されているが、いずれにせよ、その立地について「当時の土木技術を結集して決めていた」(新納〈にいろ〉泉・岡山大名誉教授)のは容易に推測できる。
北條さんは大きく踏み込み、奈良の山並みの日の出地点から延びた軸線に規定された造営計画を考えている。
詳細な検討から、奈良盆地の東にそびえる龍王山一帯での夏至や冬至、春分・秋分といった日の出を意識して3世紀にはその裾野に初期古墳群が築かれ、5世紀の百舌鳥・古市古墳群もまた、そこから西に延長したライン上に乗ることを確認した。つまり、東西を貫く“聖なるライン”が存在したというのだ。
大和から大阪に至る壮大な造営プランだけに賛否を呼びそうだが、北條さんはいう。「方位の規定を考古学は拒否する傾向があるが、これだけGPSなどが発達すると、もうそういうわけにはいかないのではないでしょうか」(編集委員・中村俊介)=朝日新聞2021年3月3日掲載