仕事場の庭に植えっぱなしにしているイチゴが、今年は驚くほど多くの実をつけた。虫に食われてしまうこともあるが、せいぜい数粒穫(と)れるかどうかという例年に比べると、実に五、六倍の収穫量だ。
植物は枯れる直前がもっとも多くの花や実をつけるという。最初の苗を植えてから、かれこれ二十年は経つだけに、いつ枯死(こし)してしまっても不思議ではない。そんな可能性があることを頭の片隅に置きながら、せめて美味(おい)しく、またゆっくり食べさせてもらおうと、砂糖とレモン汁で煮詰め、簡単なイチゴジャムを作ることにした。
ジャムが煮える甘い匂いを嗅ぎながら、そういえばふと、幼い頃の自分はイチゴ味のものが嫌いだったなと思い出した。果物のイチゴは今も昔も大好きなのだ。ただ菓子や飲み物のイチゴ味は長らく苦手で、物心ついた頃からずっと避けていた。もしかしたらそれはイチゴ味そのものもさることながら、「女の子=赤いものが好き」といった昭和末期や平成の半ばまであり続けた認識の押し付けが嫌だったのかもしれない。
それが三、四年も前になるだろうか。どこかの店で出てきたイチゴムースを「あれ、イチゴ味ってこんなに美味しく感じられるものだっけ?」と思いながら食べて以来、イチゴ味の食べ物に対する忌避感をほとんど覚えなくなった。はたと気が付けば、「赤いもの=女の子が好き」という押し付けも減り、男性でも女性でも好きなものは好きと言いやすい時代になった。
幼い頃からそんな世相だったら、小さいわたしはイチゴ味のものを嫌わずに済んだかもしれない。いずれにしても、かつては嫌い、今はそうではない、と両方の感情を味わっている事実を、わたしは面白がっている。人はいつでも変わることができる。そしてそのおかげで、もしかしたら最後となるかもしれない我が家のイチゴのジャムを美味しく食べられるのだから、この変化が間に合った幸運を喜ばねばなるまい。=朝日新聞2025年6月18日掲載
