大江健三郎はどんな風にも読むことができる。とりわけ「晩年の仕事(レイト・ワーク)」と称される作品群は、主題をいくつも抱え、多声的で重厚だ。フランス文学者で東京大名誉教授の工藤庸子さん(77)は『大江健三郎と「晩年の仕事(レイト・ワーク)」』(講談社)で、作品に登場する女たちの声と海外文学を手がかりに六つの長編を読み解く。文学の最高峰を精巧かつ大胆に、そして楽しい語り口で登った評論だ。
2000年の『取り替え子(チェンジリング)』から13年の『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』までを対象にした。四国の森に故郷を持つ老作家の長江古義人(ちょうこうこぎと)を主人公とした大きな物語を、章ごとに1作ずつ読み進める。『さようなら、私の本よ!』(05年)なら、登場人物が議論するドストエフスキー『悪霊』が作品の生成にどうかかわるか。海外文学の知見をもとに、ロラン・バルトを引いて大江が実践していた「読みなおすこと(リリーディング)」を追体験していく。
東大勤務時代に面識があるとはいえ、仏文学者が大江を評しようと思うに至ったのは、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を読んだ直後だったという。「この小説は世界文学の枠組みで語らなければいけない。しかも女性がテーマ。私しかいないじゃん、と思ったのです」
『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』では、主人公の周りにいる妹、妻、娘の「三人の女たち」が作家に書かれることについて抗議の声をあげる。古義人へ向けられる反撃は容赦ない。「女たちにやっつけられる古義人は自分の役柄を面白いと思っている。そこで何が起きたか。近代小説でも圧倒的な優位にあった男性中心の言説を、大江さんは古義人に託して崩してしまった。長い長い知識人の本質を、実演の中でひっくり返したのです」
「芸術家小説はふつう、書き始めるプロセスを小説にする。ジョイスもプルーストもそう。しかし大江さんは、いかにやめるかを書いた。その言葉通り、沈黙してしまった。極限的なスタイルですね」
ドストエフスキーもエリオットも、そして大江も、批評の担い手はこれまで多くが男性だった。「男の語りを尊重して書かないとアカデミズムでは成立しない。私にも論文は男の文体で書いているという意識がありました。今回はスタイルを変えています」
当初から、語り口は「にわかローズさん」に決めていたという。『憂い顔の童子』(02年)に登場するアメリカ人の日本文学研究者。古義人について書くため四国の森を訪れたローズさんは、セルバンテスからジョイスまで自在に語り、古義人に問いかけ、励ます重要な人物だ。「ローズさんのおかげで、作品と対話する呼吸がすぐにつかめました」
この「にわかローズさん」が本家のように好奇心旺盛ではつらつとしている。作品を前に考え込んでもすぐに気を取り直し、再び読み始める。大江のユーモアに笑い、ときに社会への怒りをあらわにする。
大江文学の根幹にあるのは「核への恐怖」だと工藤さんはいう。『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』は福島の原発事故に応えようとした作品だった。「同じような危機が今、ウクライナで起きている。このアクチュアリティーに驚きます。一瞬ですべて死に絶えるかもしれない力を手にしてしまった人類がどう歩んでいくのか、最初からずっと大江さんは問い続けています」
災厄は世界で相次ぎ、民主主義は各地でほころびを見せる。『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を読み解くなかで、工藤さんは「文学はカタストロフィーに抗する力をもつか?」という問いにたどり着く。
「私の答えは『ない』。人間は必ず死ぬし、世界はいつか滅びる。カタストロフィー(破局)に抗する力は文学にはない。しかし、そう言ったうえで語り始めるのが文学の姿勢だと思う。大江さんは未来に絶望はしないと決めている。未来を信じる作家だと私は思います」(中村真理子)=朝日新聞2022年5月11日掲載