短く美しい文藝作品は、この世にたくさん存在する。それらは短いながらも煌めく言葉で綴られ、底の見えない澄んだ水溜まりみたいに狭く深く息づき、私の心を掴む。
今回は、短い文藝作品を何作か話題にしたい。
夏目漱石の短編集『夢十夜』の「第一夜」が、私は大好きだ。
「第一夜」は「こんな夢を見た。」という一文で始まり、こう続く。「腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。」女は血色が良く、生き生きとしている。瀕死には見えない。それでも死ぬ。死に際に女は言う。「百年待っていて下さい」「きっと逢いに来ますから」。男は言われた通りに女の墓を作り、女を待つ。幾度も陽が昇り、陽が沈みを繰り返しているうちに、墓から百合が咲く。百合に接吻した男は、「百年はもう来ていたんだな」と気づく。
二千字もない、実に短い短編。しかし読み返すたびに、目の前がきらきらと輝く。内容は幻想的だが、緻密な描写は現実的だ。静謐で儚い浪漫がある。愛という言葉は一度も出てこないのに、薫る愛が暁の星みたいに光っている。これからも折に触れて読み返す、大好きな作品だ。
梶井基次郎の『桜の樹の下には』も、「第一夜」同様に短い短編である。
この作品は、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という衝撃的な一文で始まる。桜は美しい。しかし、人を惹きつけるような秀麗な花を咲かせるからには、何らかの惨(むご)い犠牲を伴っている。それはつまり屍体だ。桜の樹の下にはおぞましい屍体が埋まっていて、桜はそれを養分にしている。だから美しく在ることができるのだ。
『桜の樹の下には』は、美しさの正体と対峙する短編だと私は解釈している。昔から「美しさは恐ろしさだ」と考えていたので、初めてこの短編を読んだとき、「先人がすでにこのことを小説にしていたのだ」と喜ばしく感じた憶えがある。仄暗い言葉選びや構成も併せて、大好きな作品だ。
宮沢賢治の『春と修羅』に収録されている「報告」は、たった二行の詩だ。
さっき火事だと騒いだものは虹だったことと、その虹がいまどんな様子か、という報告だけが記されている。これがすこぶる刺さった。火事と虹が、なんとなく似ている気がしたからだ。「かじ」と「にじ」、一文字違いで、突然発生するところや、天と地を繋ぐような様も似ている。見間違えるはずがないのに、見間違えてもおかしくない。
火事じゃなくて虹でした、と言われたら、「ああよかった、虹だったんだ」と思う。その虹が「一時間もつづいてりんと張って居」るなら、火事と間違えて騒がれたことも許してしまう。
ふとしたときに思い出して、なぜかちょっと嬉しくなる。不思議で大好きな詩だ。
私は文藝作品が好きだ。特に短い作品は、「これ」という一作に出会ったときの衝撃が強い。こんなに短いのに、こんなに洗練されていて、一瞬で人の心を奪う。究極的な短編を書くために、作者は研鑽を積み、表現と向き合い、言葉を追究したはずだ。その姿勢を心底かっこいいと思う。
幼い頃から、言葉で世界を表現しようと試みたときに生じる真摯さと巧みさに魅せられてきた。短い作品にはそのふたつが凝縮されているように感じるから、触れるたびに「創作で気を抜いてはいけないな」と当然のことを思い出し、背筋を伸ばす。
文藝作品って素晴らしい。私はたくさんの作品が大好きだったし、これからも大好きだ。
◇
さて、最終回だ。「大好き
エッセイのテーマを考えながら、私は何度もいしいしんじさんが書かれた『ぶらんこ乗り』の「ときどき暗闇で小箱から取り出すように思いかえす。これが大切。」という文章を思い出した。この文章は、亡くなった人物への思いをどう扱うか、を表現した一文なので、今回の「大好きだった」とは本質がやや異なる。そこで私は暗闇ではなく陽の当たるベランダでガラクタたちを取り出して、言語化可能だと判断したものを各テーマに選んだ。
けれども、初回冒頭で述べた通り、私は“好き”が持続するタイプだ。物事へ対する好意は過去形より現在完了形(もしくは未来完了形)に近い。やっぱり大好きだったものは、えてしていまも大好きなのである。宝物がガラクタになることはあっても、それはガラクタになった宝物なのだ。縛りをつけてみたけれど、「大好きだった」はやはり難しい。
これから先、私はいろいろな物事に出会い、「大好き」なものはどんどん増えていくだろう。そうしたら、いつかは、たとえば数十年後くらいには、本当の意味で「大好きだった」ものができるかもしれない。すごく楽しみだ。