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三國万里子さんが初エッセイを出版 学校にいられなかった少女が、ニットデザイナーになるまで

三國万里子さん

同級生と「外交」できず…

――現在、ニットデザイナーとして活動されている三國さん。本の表紙のお人形が着ているカーディガンは、三國さんがこの本をイメージして編んだそうですね。

 ええ。この本はテーマを決めずに思いつくまま書いていったのですが、出来上がってみたら、ある女の子の成長物語になっていると思って。それをイメージしてこの花を刺繍したんです。根っこから葉が茂って、花が咲いて、実って……って。

――とっても素敵です。初エッセイは幼い頃からの記憶をたどったものですが、中学生以降、学校や社会に馴染めず、閉じこもっていたというエピソードが意外でした。

 人と一対一で話すのはわりと得意なんですが、女子会的な場で会話をうまく転がすといったことは今でも苦手です。小学校まではただみんなと遊びをしていればよかったんですが、中学校になると「外交」しなくちゃいけなくなる。だれかの噂話に加わるとか、こういう話はあけすけにするもんじゃないとか、そういう暗黙のルールがわからなくって。場違いなことを言って周りをしーんとさせることもよくありました。そのうち教室にいるとうまく呼吸ができなくなって、早引けするようになりました。

――そんななかでも、一人だけの家庭科クラブで編み物をしたり、家族が寝静まったあとに古い映画を観たり、豊かに過ごす様子が描かれていますね。周囲の目を気にしない強さはどこからきたのでしょうか。

 私も気にしていましたよ。「ぼっち」にみられたくなかったし、じつは恥ずかしかったです。でも、どうしようもなかったの。どうしてもその場所にいられなかった。

救いは大人との友情だった

――そうだったんですね……。今、同じように苦しんでいる子どももいると思います。

 もしかしたら同い年の友達ではなくって、大人の中に気の合う人がいるかもしれないから、ちょっと探してみてもいいんじゃないかな。もちろん、危険なこともあるから、注意は必要ですけど。というのも、私はあの頃本当に大人に助けられたんですね。学校にいられない私を受け入れて、稲垣足穂の本を貸してくれた学校の先生や、「ここではないどこかにきっとまりこと気の合う仲間がいる」と教えてくれた叔父。大人と友情を育むことってじつはできるんですよ。相手が賢い大人ならね。

――では、その子どもを見守る親はどう接するのがよいでしょうか。

 一概には言えないですけど、私の場合は放っておいてほしかった。両親とも働いていたのが幸いでした。早引けして家に帰ってきても、見つからないじゃないですか。たぶん親はある程度までは知らないふりをしてくれてたんでしょうけど。

 それからね、その子のなかに「葛藤する自分」というものが生まれることは良いことだと思うんですよ。人にうまく混じれたら死ぬまでそういう人間として生きられるかもしれない。でも、もしその子がそうじゃないとしたら、孤独の中で自分なりの生き方を探すことでその子はうんと成長すると思うんです。そういう子どもの姿を親が最初から受け入れるのは難しいと思います。うちの母にも、「まりこには友達がいない」って目の前で叔父に相談されちゃってとっても恥ずかしかった(笑)。でも、「この子は今、成長してるんだ」って受け止めてもらえたら、子も親も楽になると思うんです。

――三國さんはどうやって外の世界へ出ていったのですか。

 大学卒業まではずっと繭の中にいました。大学を出て、古着が好きだからっていう理由だけで古着屋に勤めて、そこでクビになって。そういう生々しい出来事が起きてようやく、脚が出て触角が出て羽が開いていったという感じ。繭の中では生きられませんからね。

 その後、叔父の紹介で秋田の温泉宿で働くのですが、あれが転機でした。温泉宿で働いているおばちゃんたちって、それなりに何かあった人たちだと思うんですけれど、その働く姿を見て、大人になりながらも楽しく働けるんだなってことが分かったんです。

 私、それまでは自分を役立たずだと思ってたんです。でも温泉宿の人たちは、みんな私をかわいがってくれて。私にも社会に出て役立つ可能性があると知ったのがそのときでした。

最初は子どもの学費のため

――その後、東京へ戻り、アルバイト先で「三國さん」という男性と出会い、結婚、出産。エッセイでは「三國さん」との恋や、子育てについても詩情豊かに綴られていますが、そこからどのようにして編み物作家になったのですか。

 主婦であった時間は充実していたと思います。私ね、何をしていても幸せっていうんですか。家事も育児も瞬間、瞬間、感じることがあるし、ある種の創作活動だとも思っているんです。だから、自己実現したいと思い悩んだりはしなかったんです。

 妹の働くレストランのレジ前にふきんや鍋つかみを置いて売らせてもらったのがそもそものはじまりなんですが、そのきっかけも子どもの大学費用を貯めようと思ったから。ただ、その手段として物を作る仕事を選んだのは、今を逃したら本当にやりたいことをやれないまま一生を終わるだろうなという気持ちがあったからかもしれません。ものを作って、だれかの役に立って、ちょっと自分の表現もできるようなことって、今まで社会の中であまり役に立たないという気持ちを抱きながら生きていたことを考えると、ほんとうにキラキラして見えました。

――なぜ、「編み物」だったのですか。

 なんの技術ももたないわたしが、資料本を読んでひとりでできるものが、編み物だったんです。編み物との出会いは3歳の時。祖母から教わりました。私の世代って、家族の女性たちはけっこう編めるものなんです。彼女たちは「このぐらいの幅のゴム編みは何目くらい」って目分量で編めるのよ。私は糸が平面になって、立体になって……というのがおもしろくって、いらない糸をもらって繰り返し繰り返し編んでいましたね。初めて作ったのは、家族全員分の箸袋でした。うれしいんですよ。つくったものをあげるのって。みんな、大げさに喜んでくれるんです。

 「編み物作家」っていうのも最初はハッタリでした。全然儲かんなかったしね(笑)。でも「仕事」って言わないと自分を奮い立たせることも家族を納得させることもできないから。当初は1年に1回、東京と京都で展覧会をしていました。その1回に向けて1年間編み続けるんです。編み貯めたものが押し入れのなかにぎっしり入っていて、それを展覧会の1週間前に整理するんですよ。夫の手も借りて、一覧表を書いて値札をつけて、ほつれてないか検品して。そうして売れたら今度は芳名帳に書いてある住所に発送して……。大変でしたけど、最初から最後まで自分でやるっていう経験をしたのはよかったと思います。その後、編み図のデザインをする仕事が主体になりましたが、今でもイベントなんかではちょこちょこ編んで売ることもあります。編むことはずっと好きでしょうね。

ポップチューンを聴くみたいに読んで

――本書では、そうした三國さんのストーリーはもちろん、何げない日常もつづられています。幼き日の朝、布団の中から眺める「光の遊び」に感じたかみさまの「恩寵」。家族に忘れ去られたバナナが静かに水を放出し、「死んで」しまったことなど、瑞々しい描写と日常の清新な捉え方に驚きました。

 ありがとうございます。書いてみたらと友人に勧められ、何が書けるんだろうと少し迷ったりもしたんですが、パソコンの前に座ったら出てきたのは昔出会った人々やその時感じていたことでした。面白いですよね、書かなければ思い出しもしない、ばらばらにちらばったトピックだったと思うんです。それが書くことで物語になっていった。記憶を編んじゃったのね。この本にも書きましたが、書けば書くほど心の中に溜まっていたものが解放されていくようで、とても楽しかったです。

――なるほど、それでタイトルが『編めば編むほどわたしになっていった』なんですね。

 そう、このタイトルは私が考えたんです。ちょっと長いんですけど、新潮社の賛同も得られて(笑)。

――このエッセイをどう受け取ってほしいですか。

 そうですね…。ポップチューンを聴くみたいに、気軽に読んでいただけたら、とても嬉しいです。そしてもし良かったら、ご自分のまわりにある世界を、もう少しゆっくり眺めてもらえたら、と思います。いいものがたくさん見つかるはずですよ。