ISBN: 9784000615662
発売⽇: 2022/11/15
サイズ: 20cm/344,43p
「オーウェルの薔薇」 [著]レベッカ・ソルニット
実は本書の真の主人公は『一九八四年』や『動物農場』を書いたジョージ・オーウェルではない。薔薇(ばら)であり植物であった。
もちろん、意外なことにオーウェルが自宅の庭に薔薇や林檎(りんご)の木やイチゴを植えたり、鶏や豚や雌牛を飼っていたりした事実は、彼の作品を理解する手助けになるだろう。作品の中にも彼が日常の中に見いだしたささやかな美の影響を見ることができるからだ。従来それほど重視されてこなかった彼の「家事日記」に、著者が彼の思想を探っていく筆の運びには心躍った。
だが、それよりも私の心に深く刻まれたのは、著者が、オーウェルの言葉をきっかけにして幾分(いくぶん)アクロバティックに薔薇と人間のあいだに横たわる沃野(よくや)に連れ出してくれたことである。
薔薇の花は色も香りも多彩で、飲料や食料、図案にも用いられる。豊穣(ほうじょう)、愛、ロマンス、無常、放縦などを表し、祭祀(さいし)や文学にも繰り返し登場する。
ただ、著者は薔薇の美しさを礼賛するだけではない。本書の読みどころはなんといってもコロンビアの大規模な「薔薇工場」への著者の訪問記だと思う。コロンビアはコカインの原料、コカの葉の代わりとなる輸出品として、花卉(かき)産業を発達させてきた。現在米国で販売される薔薇の八割はコロンビアからの空輸である。
工場はまるで『一九八四年』で描かれた世界だ。エンジニアが生産性最大化のため労働者のトイレの回数や作業速度を記録する。ベルトコンベヤー方式を徹底して、仕事を細分化し単調化する。筆者が話を聴いた女性たちは毎日鋏(はさみ)で薔薇を切り、腱炎(けんえん)などに苦しんでいた。セクハラも起こる、という。
バレンタインデーや母の日など繁忙期は低賃金の労働者にさらに負荷をかける。従業員の作業服には「チーム一丸働けば/チーム一丸祝勝・成功」「努力と情熱ある人が、仕事に満足できる人」などのスローガンが印字されている。
工場周辺の自然界も破壊されている。地下水が不足し、殺菌剤が蝶(ちょう)などの虫を殺し、空気が汚染される。そして象徴的なのだが、ここの薔薇は画一的に整えられ、花びらは開いている状態ではなく、つぼみの状態で、なぜか香りが弱い。筆者の推測によると、見栄えと耐久性を目指す薔薇の品種改良が香りを特に重視しなかったのだ。
筆者は、「オーウェル的」ともいうべき疎外社会を彼の愛した薔薇の生産現場で見いだす。そして逆説的に一本の薔薇の広く深い世界が、暴力によって荒廃する世界に拮抗(きっこう)しうることを示唆する。
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Rebecca Solnit 1961年生まれ。米国の作家、歴史家。環境や人権問題、フェミニズムなど幅広く活動する。著書に『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』『説教したがる男たち』など多数。