ISBN: 9784041177075
発売⽇: 2026/09/16
サイズ: 13.8×19.4cm/320p
「その犬をください」 [著]逢坂冬馬
本書を読んで、遠い日の記憶が甦(よみがえ)ってきた。通学路をふさぐ一匹の野良犬。怖くて家に逃げ帰った。あの犬はその後、どうなったんだろう。
明治から現代に至る四つの物語を通して描きだされるのは、日本における人と犬の関係だ。どの物語にも、戦争の影が差している。ただし本書は、「犬と戦争」という言葉から想像されるような、いわゆる感動物語ではない。本書が光を当てるのは、そうした物語の裏にあるものたちだ。
最初の舞台は明治初期の東京。エリート青年たちの教育を担う英国人のスミスは、町を跋扈(ばっこ)する野犬に悩まされていた。彼の目に、野放図な犬の姿は日本の後進性の証(あかし)にみえる。その文明化を使命としつつも、スミスは次第に自分の傲慢(ごうまん)さを省みはじめる。片や彼の教え子たちは、他者の支配と教化を目論(もくろ)む帝国主義的な欲望を内面化してゆく。
次なる舞台は昭和初期、日中戦争前夜の渋谷駅。駅前に居座る一匹の犬が、あの「忠犬ハチ公」になるまでの顚末(てんまつ)が描かれる。ある新聞記事をきっかけに、主(あるじ)への忠義を尽くす「純粋な日本犬」の物語が、忠君愛国の鑑(かがみ)として一大ブームを巻き起こす。「動き出したお噺(はなし)は、誰にも御することができないんです」という記者の言葉は予言的だ。
続く物語の舞台は太平洋戦争末期の横浜郊外。軍犬の「出征」が称揚される一方で、無駄と目された犬の供出が推進される。犬好きな明にとって、そんな大人たちの姿は空恐ろしい。彼の慕う平吉兄さんは真実を語るがゆえに追い詰められ、明は一人、愛犬を救うための行動に出る。
最後の舞台は現代の横浜市。不登校になった高校生・楓は、世界中で続く戦争への恐怖を抱いている。一方、楓の幼馴染(おさななじみ)のエディは、自分の外見に対する周囲の偏見に苦しんでいた。そんな二人が、楓の飼い犬と一緒に日常から「遁走(とんそう)」することで、事態は思わぬ方向へ転がってゆく。
いつの時代も、人は他種を、他者を、思い込みや偏見からなる「お噺」を通して眼差(まなざ)してきた。ハチ公や犬の供出をめぐる騒動は、一昔前の人々が巻き込まれた悲喜劇にみえる。では、「人種」や「犬種」はどうだろう。人や犬を差別化する「お噺」ではなく、それらを「自然」とみなす見方はいまなお根強い。
いつも何かの「お噺」に囚(とら)われながら、それでも人は未知の相手と出会い、その生に関わり、感情を揺さぶられる。四つの物語を読み進むうち、「正しい理解」という大道ではなく、迷いや葛藤や意外性に満ちた、細い獣道がみえてくる。前を歩いていく犬の、尻尾に導かれるように。
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あいさか・とうま 1985年生まれ、小説家。『同志少女よ、敵を撃て』でアガサ・クリスティー賞を受けて2021年にデビューし、この作品で本屋大賞、高校生直木賞。『歌われなかった海賊へ』『ブレイクショットの軌跡』など。