人生がときめくベンヤミンの歴史哲学 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』(岩波新書)は、ようやく登場した手に取りやすいベンヤミン入門として、人文書売場で大きな力を発揮する本だと思います。書店員の皆様は新書棚だけでなく、ぜひハードカバーの棚前にも積んでください。
さて、書店員の役目はできるだけ多くの方に本を届けることですが、ベンヤミンという思想家の魅力をどのように伝えればいいのか、これは難問です。
そうですね、では例えば、皆様は「片づけ」は得意でしょうか。かくいう私は苦手で、モノをなかなか捨てることができず、困っております。
そんな時、ベンヤミンをひもといてみましょう。
上記の新書の冒頭で紹介されているのですが、ベンヤミンによる「歴史の概念について」という文章の中に、“歴史の天使”について書かれた有名な一節があります。
歴史の天使は、空から人類の歴史を眺めていて、それはどこまでも積み上がっていく瓦礫(がれき)の集まりなのです。天使はその廃墟の中から死者や捨てられたモノを拾い上げたいと思っているけれど、過去から未来に向けて吹く風が強すぎて、天使はどんどん未来の方へ流されてしまう。
悲しいイメージですね。これがベンヤミンにとっての「歴史」のイメージです。「歴史」とは捨てられた物事の集積で、時間がどんどん未来へと向かう中、ベンヤミンは名残惜しそうに後ろを見ているのです。
また、ベンヤミンは同じ文章のなかでこうも言います。
「過去はある秘められた索引(インデックス)をともなっており、その索引によって過去は救済へと向かう」
(W・ベンヤミン著、山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫所収)
過去として積み重なっていくガラクタには秘密のインデックスがあって、それを見出すことで過去は「救済」されると彼は言います。そして、「そうだとすれば、われわれはこの地上で待ち受けられていた者だということになる」。
つまり、捨てられた過去の事物の中に秘められた何かを見出すことが、過去にとっての「救済」であり、私達はそのためにここにいるのだと。
いかがでしょうか。だんだん、別に無理してモノを捨てなくてもいいような気がしてきたのではないでしょうか。ガラクタにしか見えないものでも、それは「救済」を待っている過去なのかもしれません。
もっとも、ベンヤミン自身がモノを捨てなかったのかというと、それは違います。ベルリンに生まれたユダヤ人である彼は、ナチスの台頭に伴って亡命を余儀なくされるのですから。
後に彼が幼少期を回想して書いた「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」(W・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』ちくま学芸文庫所収)には、彼がかつて目にし、触れてきたものが克明に、切実に描かれており、彼が捨ててきてしまったものの大きさを感じずにはいられません。
また、ベンヤミンの書き方に即して考えると、大事なのは捨てるかどうか迷うものではなく、すでに捨ててしまい、捨てたことすら忘れたような、些細(ささい)なものの方かもしれません。彼は通常の「歴史」としては語られないような、忘れ去られた、取るに足らないものにこそ「歴史」を見出そうとしていたからです。
「歴史を語りえなかった、それゆえに支配的な物語によって抹殺された者たちの記憶の一つひとつから、歴史的な経過の総体を見返し、危機的な現在を見通すこと。」(柿木伸之・前掲書)
しかし一体どうすれば、捨てられた過去の断片に秘められたものを見出すことができるのか? その問題は、実は実際にベンヤミンを読んでもあまりはっきりとは書いてありません。ただ、それは明確な形で理解できるものではなく、「さっとかすめ過ぎてゆく」「思いがけず立ち現れる」ものだと言います。「それを認識できる瞬間に閃き、そしてその後は永遠に目にすることのないイメージ」とも。
不思議なイメージですが、ベンヤミンにとって過去に秘められたものとは、一瞬の火花のように現れるようです。そしてその一瞬だけ現れるものを、捨てられ、忘れられた物事の中に探すのが私達の役割であると。
その一瞬の感覚を、そうですね、ここでは例えば「ときめき」と呼んでみましょうか。何の価値もなさそうなガラクタ、もう捨てたことさえ忘れたような過去、そういうものを掘り起こし、その中に一瞬の「ときめき」を見出すこと、そのことによって、過ぎ去ってしまったものを「救済」すること――そういうことを、ベンヤミンは歴史の哲学と呼んでいたのではないかと思います。