新型コロナウイルス 封鎖都市で何が起きていたか~平凡社新書『ドキュメント武漢』より
記事:平凡社
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運転手が「着いた。ここだよ。やっぱり閉まってるね」と言った。交通量が多く、路上駐車の車もあるので、すぐには止まれない。数十メートルほど行きすぎた路肩で車を降りた。高速鉄道のターミナルである漢口駅が近く、歩道の人通りは多い。駅へ急ぐのか、大きな荷物を運んでいる人もいる。道沿いの食堂の店頭からは、客を誘うかのように盛大な湯気が上がり、雑貨屋では子ども用の玩具をあれこれ手に取りながら品定めする女性がいた。活気ある地方都市そのものといった光景だ。
ただ華南海鮮卸売市場だけはひっそりとしていた。市場は大きな通りの歩道に面して海鮮、上海ガニ、エビ、スッポンといった看板を掲げた小さな店が軒を連ねている。歩道に沿って「警察」と書かれた立ち入り禁止のテープが張り巡らされていて中には入れない。ところどころに路地があり、奥をのぞき込むとやはりおなじような店がたくさん並んでいる。全て閉店した様子でシャッターが下りている。店先に放置された水槽から歩道へと汚水が流れ出している。なんとなく気味が悪くて踏まないよう気を付けた。警備員が二人、小さなプラスチック製の椅子に腰掛けてしきりに両手でスマートフォンをいじっている。ゲームでもしているのだろうか。水色のマスクはしているが、息苦しいのか、下にずらして鼻を出していた。周囲に目を光らせることはなく、とにかくそこにいるのが仕事という様子だ。正門とみられる出入り口では、胸にカードを下げた関係者が出入りしていた。そこだけは警備が厳しく、カメラを構えると「ここは入れないぞ」と警備員が声を荒らげた。
何枚か市場の写真を撮った後、歩いて一分ほどの場所にある小さな薬局に入った。レジの近くにいくつかマスクが置いてある。日本製だ。子ども用もある。マスク姿の女性店員に「Lサイズはないのですか」と尋ねると「なくなったんですよ」と答えた。年末に原因不明の肺炎患者が出たというニュースが流れた際、マスクが飛ぶように売れたのだという。「でももう市場も閉じちゃったのよ」「そのようですね」「だから大丈夫。もう終わった感じ」と商売っ気がない。それでもマスクを見ていると「Mサイズでも大丈夫よ。これよく伸びるから」と薦めるので、それを買って店を出た。
別の雑貨屋に入って店員に「マスクはないか」と聞くと無言で店の奥を指さした。カラフルな布製のマスクがいくつもぶら下がっていた。店員も客もマスクなんかせずに会話していた。
やはり事前の想像とは違うようだ。みんな口をそろえて肺炎騒ぎは「もう終わった」と言う。まるでこちらが臆病者のようだ。市場を離れて歩いて行くと、屋外ショッピングモールの入り口辺りにベンチがあった。腰掛けてデイパックからパソコンを取りだして原稿を書く。手がかじかんで早く打てない。しかし風通しの悪い喫茶店か何かに入って作業すれば感染の恐れがある。ほうきを持った清掃員の女性がけげんな顔で見ながら通り過ぎていった。
潔く原稿のトーンを想定とは変えよう。「危機感薄い市民」。そんな見出しの記事を送った。トイレに行きたくなり、近くにホテルを見つけて用を足す。ロビーには昼に宴会でもしたのか、にぎやかに車に乗り込む人たちがいた。もうすぐ春節(旧正月)だから食事会が多いのだろう。
市内にある日系のショッピングモール、イオンも見ておこうと思い、配車アプリ「滴滴(ディディ)」を使って車を呼んだ。タクシーより少しグレードの高い車を呼ぶ。数年前と違い、車が呼びやすくなった。現在位置と目的地を入力すれば、周辺を流している車が来てくれる。五分ほどすると日産自動車の「ティアナ」が来た。黒塗りの立派なセダンだ。運転手の男性に「年末の肺炎騒ぎ」の話を聞くと、「地元の新聞や微信(ウェイシン)で流れている情報からすると、もう心配する必要はないようだ」と話した。微信は中国で普及しているスマートフォンのアプリで、LINE(ライン)と機能が似ている。友人同士のメッセージのやりとりだけでなく、飲食店やスーパー、インターネット通販での支払いなど生活のさまざまな場面で利用できる。多くの国民はニュースも微信を通じて得ている。ただし当局の監視下にあるので、政府にとって不都合な情報は流せない。
イオンは通常通り営業している様子だった。入り口で手指をアルコール消毒できるようになっていた。ニトリやユニクロなどを横目で見ながら奥へ進む。薬局では風邪薬や咳止めを集めた棚を作っていた。食品スーパーをのぞいてみると、買い物客でにぎわっていた。
また滴滴で車を呼び、現地在住の日本人に会う。この男性は「日本のメディアが 新型肺炎のことを大きめに取り上げ始めたのは一月上旬ですよね。現地にいる私たちの感覚からすると『終わった後に騒ぎ始めた』という感じなんですよ」と話した。
「東京からもニュースを見て『大丈夫か』って電話がかかってくるんですけどね」と困惑気味だ。現地の日系企業各社は、日本からの出張者が泊まるホテルの掃除を念入りにするようホテル側に依頼するなどの措置は取っているものの、出張禁止にまでは踏み込んでいないという。「ウイルスが変異して強毒性になればたいへんなので不安ではありますが」と話した。
もう夕方だ。帰りの飛行機に乗るために空港に向かわなければならない。日帰り出張なのだ。本来なら最低でも一泊はしたいが、感染リスクを減らすためには仕方がない。武漢の人たちは安心しろと言うが、不安はぬぐい去れない。確かにこの時点では、新型ウイルスが「人から人」に感染すると断定する分析はなかった。だが可能性はあると考えるのが自然だった。
空港に向かうタクシーの中で、帰りの機内の乗客は全員が武漢滞在者だという当たり前のことに気付き、怖くなってきた。あれだけの密室だ。周囲に感染者がいてもおかしくはない。武漢市内で外を歩き回っているより機内の方が危険かもしれない。ここは自腹を切ってでも、人口密度の低いビジネスクラスに変更しよう。スマホで予約変更を試みたがすでに満席だった。
機内は八割ほど座席が埋まっていた。隣は空席だったが、周囲にはマスクをしていない人が多い。一方で、私と同じように、本格的なマスクを着けている人もいる。警戒している人もいるのだ。ほっぺたにマスクが食い込んで不快だ。きっと顔にくっきりとマスクの跡が付いているだろう。でも家に着くまで辛抱だ。
北京の自宅マンションに着くと、エントランスでデイパックやコート、靴などを全てアルコール入りのウエットティッシュで消毒した。たった一日の取材なのに、神経のすり減る出張だった。
新型コロナウイルスは未知の脅威だ。武漢の人たちの「もう大丈夫だろう」という期待とは逆に、ウイルスは中国だけでなく世界中でも感染が広がり、多くの人の命を奪った。社会や経済に与えた打撃も大きい。もっと早く警戒を強められなかったのだろうか。もっと上手に対応できなかったのだろうか。そんな疑問を多くの人が持っているはずだ。
中国で何が起きて、習近平指導部や市民はどう対応したのだろうか。中国に駐在する記者として、記録に残したいと思い、この本を書き始める。
(平凡社新書『ドキュメント武漢』プロローグの一部を引用)
プロローグ
「マスクなんか要らないよ」/華南海鮮卸売市場/「終わった後に騒ぎ始めた」
第一章 遅れた初動対応
「原因不明の肺炎」/香港、台湾で警戒強まる/新型コロナウイルスと確認/四万世帯の大宴会/湖北省の重要会議/情報統制を強化?/中国政府、対策を始動/「人から人」への感染確認/春節直前/決断前夜/封鎖発表直前の“誤報”
第二章 医療崩壊の実態
武漢の経済を支える自動車産業/辛亥革命発祥の地/深夜の病院にも行列/統計外の死者/医療従事者への暴力も/人民解放軍が武漢入り/十日間で病院建設/閉じこもった住民/邦人救出作戦/中国人企業家が邦人の帰国を支援
第三章 中国全土に感染拡大
対応の遅れ認めた武漢市長/既に多くが省をまたいで移動/統計をめぐる混乱/刑務所でも集団感染/ゴーストタウンとなった北京/バリケードで集落を封鎖/デリバリーに助けられる/出稼ぎ労働者/春節を延長/記者会見もオンラインに/「髪を切りたいんだって?」
第四章 立て直し図る習近平指導部
人民大会堂の新年会/感染対策のトップは李克強氏/国営テレビでアピール/湖北省の幹部更迭/「一月七日」の指示/厳しい外出禁止令/高官視察のための「やらせ」/「さようなら李文亮!」/全人代、異例の延期/習近平氏が武漢入り/党・政府の収束アピールに非難殺到
第五章 中国経済、未曽有の危機
未完の摩天楼/過剰投資の現場/「ハードランディング」へ突入/自動車生産がストップ/賃金の未払いも多出/原油安が中国に飛び火/合言葉は「復工復産」/発電量の落ち込み/製造業ストップの影響が世界に波及/外交政策にも影響
第六章 激化する米中対立
海外旅行ラッシュ/WHOからの“お墨付き”をアピール/渡航禁止に猛反発/米中対立の舞台となったWHO/ウイルスの発生源はどこなのか/武漢ウイルス研究所/「世界は中国に感謝すべきだ」/「われわれは世界のために働いている」/習近平氏の訪日延期/「米国では〝政治ウイルス〟が広がっている」
第七章 「コロナ後」へ向かう中国
武漢の封鎖解除/「あなたを今から隔離します」/事実上の鎖国状態/全人代、二カ月半遅れで開催/アクセルとブレーキの調整/続いていた「中国製造2025」/ウイルス第二波の恐怖/北京の市場で集団感染/PCR検査を受けてみた
エピローグ──再び武漢へ
何度も求められる陰性証明/封鎖下の暮らし/動き始めたターミナル駅