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歴史は物語なのか? 『使える!「国語」の考え方』より

記事:筑摩書房

original image: GieZetStudio / stock.adobe.com
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 歴史家の多くが、「歴史は物語である」という言明に対して反発を覚えるようである。ただ、歴史家が考える「物語」という語は、「フィクション」に近い意味でとらえているものである。

 確かに歴史小説は想像に基づくものであり、また勝手にイメージを作り出していくものである。多くの人がそれこそを「歴史」と考えているのに我慢がならないのは、理解できる。また書店に行けば根拠の乏しい想像からなるものが「歴史の真実」と銘打たれて並んでいるのを見ても、腹立たしい思いになるのであろう。歴史叙述とは客観的事実を追求するものではなくて、国家と国民統合に利するために行うものだとする歴史観を持った人たちが歴史教科書を編纂したりもしている。

 現在の歴史学では、「事実」が重視されているが、「事実」とは資料的根拠に基づくものとされる。それも、単一の資料に基づくのではなく、複数の資料を勘案して「事実」を叙述していく。資料のないものについては沈黙しなければならない。資料的根拠があるとすると、きちんとした歴史学の論文はフィクションではない。だが、きちんと論証された歴史も多くは物語ではある。複数の出来事を連結して叙述するだけで、これはもう物語なのである。事実であるかフィクションであるかではない。「事実」を述べるとする歴史学の論も、客観的に観察可能な出来事の叙述のみで構成されているわけではない。

 一例として呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018年)を取り上げよう。この本では、陰謀論を中心とするさまざまな俗説が退けられている。例えばよく取り上げられる陰謀論に、本能寺の変の黒幕がある。さまざまな説が唱えられているが、資料的根拠を欠き、どれもが幻想にすぎないことが論じられている。

 本能寺の変で明智光秀が織田信長を殺害したのは明確な事実である。だが人々はそれだけで歴史の叙述を終わらせたがらない。なぜ光秀は信長を殺害することになったのかが謎として残り、それを解明したくなる。これが問題となるのは、当時の状況から考えて、光秀が謀反を起こす原因・理由・動機が合理的に説明できないからである。「光秀が信長を殺害した」という記述で終わるならば、森友学園問題で言えば「国有地が格安で売却された」という記述で終わるのと同じことであり、それだけでは関心の対象とならない。

 原因・理由を探るのは、因果関係で出来事を結びつけることであり、ストーリー構築である。また、光秀の動機を探るのは、意図を持った主体として扱っているからである。人間は心情を持ち、何らかの意図をもって行動するが、心情や意図は客観的に観察可能ではない。もし「事実」なるものが客観的に観察可能な出来事に限るのであれば、動機や意図などはそもそも論じるべきではないことになる。だが果たしてそれでいいのだろうか、という疑問も出てくる。

 本能寺の変に関するさまざまな説は憶測にすぎず、フィクションではある。だが『陰謀の日本中世史』を読むと、呉座氏をはじめとした歴史家も複数の出来事を連結させて論じるだけでなく、その出来事の原因・理由、さらには意図にまで踏み込んで記述していることが分かる。荒唐無稽のフィクションと異なるのは、資料的根拠から合理的で説得的な論証をしているかどうかである。

 次のような記述を読んでみよう。

 足利尊氏は弟直義を救援するため、出陣の許可を後醍醐に求めた。さらに征夷大将軍の地位を要求した。通説では、尊氏が征夷大将軍を求めたのは、建武政権からの離脱、幕府樹立という野心が彼にあったからだと説明される。実際、後醍醐も尊氏の自立化を恐れて、尊氏ではなく成良親王を征夷大将軍に任命した。なお、尊氏が後醍醐の許可を得ないまま出陣すると、後醍醐はあわてて尊氏を征東将軍に任命している。

 しかし近年の研究では、尊氏の征夷大将軍任官要求は、武家政権樹立への布石ではないと考えられている。鎌倉幕府再建を大義名分に掲げる北条時行に対抗するには、征夷大将軍の権威が必要と判断したにすぎないというのである。結果を知る私たちから見れば、北条時行など物の数でもないが、当時の尊氏は直義に勝利した時行を恐れたと見るのが自然だろう。

 建武二年八月、足利尊氏は北条時行を撃破し、鎌倉を奪回した。しかし尊氏は直義に説得され、後醍醐の帰京命令を無視して鎌倉に居座り、勝手に恩賞を与え始める。この尊氏の行動は、通説では、建武政権からの離脱、幕府樹立という姿勢を明確化したと説明される。だが、この時点での尊氏にそこまでの余裕があっただろうか。圧勝したとはいえ、反乱の首謀者である時行を取り逃がしてしまったし、時行の残党も鎌倉周辺に潜伏していた。すぐに京都に帰れば、時行が勢力を盛り返す恐れがあった。亀田俊和氏が述べるように、鎌倉を拠点に関東の支配を安定させた上で帰京しようというのが尊氏の考えだったと思われる。

 最初の段落を確認すると、「出陣の許可を求めたこと」「征夷大将軍の地位を要求したこと」「尊氏が許可を得ないままに出陣したこと」「後醍醐が慌てて征東将軍に任命したこと」は客観的に確認可能な「事実」である。だが「通説では、尊氏が征夷大将軍を求めたのは、建武政権からの離脱、幕府樹立という野心が彼にあったからだと説明される。」はそうではない。征夷大将軍を求めた尊氏の意図についてまで踏み込んで叙述している。

 「通説」とあるように、これは歴史家がそのように叙述しているのであって、歴史小説家が書いたものではない。

 次の段落では、この通説への反論が行われている。尊氏がその地位を求めたのは、武家政権樹立のためではなく、単純に北条時行打倒のために権威が必要だったためとしている。この説は、その当時の状況から見て、尊氏にはまだ後醍醐天皇に逆らう意志はなかったとみるほうが合理的だからだとされる。

 その次の段落で述べられていることのうち、「尊氏が鎌倉を奪回したこと」「後醍醐の帰京命令を無視して鎌倉に居座り、勝手に恩賞を与えたこと」は客観的に観察可能な事実である。それでも、これらを並べることは単に客観的「事実」を述べているだけではない。通説では「征夷大将軍を求めたこと→勝手に恩賞を与えたこと→(後に室町幕府を立てること)」という時間軸に沿って発生する出来事をつなぎ合わせ、しかもそこに因果関係を読み取っていることになる。因果関係を読み取るからこそ、前の二つの出来事が幕府樹立の布石と説明されることになる。これだけでまぎれもなくストーリーの構築であり、物語である。

 ここではさらに、尊氏が鎌倉に残って恩賞を与えたのは、関東支配の安定化が目的であったと通説と異なる見解を挙げている。これも尊氏の意図の説明である。

 とすれば、呉座氏の文章も、客観的に観察できる出来事の原因・理由・意図について叙述していることになる。これは「明智光秀が本能寺の変を起こしたのはなぜか」を巡る諸説と、根本的には同じものである。違いは、きちんと資料に基づき、合理的な説明をしているかどうかだと言える。

 そもそも歴史叙述には叙述者(語り手)がいる。つまり認識主体がいるわけで、その見方が反映される。ある客観的事実があったとして、それを取り上げ、他を取り上げないという段階ですでにそうなのである。

 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ、2006年)から例を見る。

 いずれにしても、当時、分国法に喧嘩両成敗法を盛り込んでいるか否かにかかわらず、基本的に戦国大名とは、大なり小なり、あらゆる紛争を当事者の自力救済ではなく、自身の法廷に訴え出させることで解決することを志向していた存在であった。古くからヨーロッパ法制史研究においては、自力救済権を否定する治安立法を成立させているか否かが、近代国家の成立の大きな指標のひとつとされてきた。わが国の法制史研究が戦国大名に大きな注目を向けてきたのも、まさに戦国大名が自力救済の克服のためにみせていた積極的な姿勢が、そうした人類史的なスケールの問題と大きく関わっていたからに他ならない。とりわけ、従来の研究においては、戦国大名の治安立法のうち喧嘩両成敗法だけが過度に注目されてきたという経緯があり、喧嘩両成敗法といえば戦国大名、戦国大名といえば喧嘩両成敗法、というぐらいに、かつて両者は強く結びつけて考えられてきた。

 戦国大名が「喧嘩両成敗」にかかわる法を定めたのは事実であるが、それを取り上げてきたことは、「自力救済権を否定する治安立法を成立させているか否かが、 近代国家の成立の大きな指標のひとつ」とされてきた歴史観に基づいたものだとされている。このように、客観的事実を書くとする歴史家の叙述も何らかの歴史観のもとに出来事をつなぎ合わせて考えるものなのである。

 清水氏の『喧嘩両成敗の誕生』はいわゆる出来事史ではなく、中世の人たちの争い解決法の歴史を説いた説得的で面白い本である。しかし一次資料の中から、「事実」を選択し、並べ、そこに意味や価値判断を見出している。フィクションではないが、広い意味での物語である。

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