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故・白川静さんの遺稿をもとに字書『漢字の体系』を編集 1字ずつ確認する膨大な作業が結実

記事:じんぶん堂企画室

職場の机に向かう竹内涼子さん
職場の机に向かう竹内涼子さん

ルーペと小型キーボード

 多くの出版社や書店が集まる東京・神田神保町のビルに平凡社はある。

 編集者たちの机は、どれも多くの資料や本が山積みされている。

 その中のひとつ、竹内さんの机には、ルーペが置いてあった。物の上にのせて拡大して見るタイプのものだ。雑誌編集では写真の確認などに使うことが多い。

 「漢字の字体が正しいかどうか、ゲラの確認に使うんです」

ゲラの確認に使うルーペ
ゲラの確認に使うルーペ

 さらに机の奥には、パソコンのモニターとは不釣り合いな、小さなキーボードも見えた。幅22センチほど。電卓と見間違えそうなサイズだ。

 「ゲラを広げる時に邪魔にならないよう小さなキーボードを使っています。これでもちゃんと打てますよ」

 平凡社で「白川編集部」と叢書「平凡社ライブラリー」の編集長を務める竹内さん。入社して約30年になる。

高名な学者の担当に

 竹内さんが白川さんに初めて会ったのは1998年。前任の編集者が退社することになり、連絡係として手伝い始め、やがて正規の担当になった。だが、それまで漢字に関する専門知識もなかった。相手はその道を究めた高名な学者。「私が担当編集者でいいのか」とプレッシャーを感じたという。

 それでも「白川先生は孫のような世代の私にもいつも対等に接してくださり、頻繁にやり取りするゲラには用件のほかにこちらを気遣う手紙が必ず添えられていました。一度会えば誰もが魅了されてしまう、ユーモアにあふれ優しく思いやりのある方でした」。

ありし日の白川静さん(2004年6月撮影、朝日新聞)
ありし日の白川静さん(2004年6月撮影、朝日新聞)

 白川さんの原稿や手紙はペンで手書きだった。独特の筆致のため、最初は読めず、先輩編集者に読んでもらうこともあった。

 編集作業では漢字の字体もチェックするため、ゲラはA3に拡大して確認した。白川さん自身も大きく重いゲラを持ち運んで確認したものだった。晩年は病院でも原稿を書いていたという。

平凡社に託された遺稿

 白川さんは立命館大学の教授を務め、1976年に66歳で定年退職した。その後、73歳から一般向けの字書作りに取り組み始め、『字統』『字訓』『字通』の字書三部作を平凡社から出版した。ほかに同社から著作集を出すなど、多くの著書を残し、2006年10月、96歳で亡くなった。

 その時、最後の字書となる『漢字の体系』の手書き原稿は、平凡社に残された。

『漢字の体系』の膨大な手書き原稿
『漢字の体系』の膨大な手書き原稿

 白川さんは晩年、講演などで「漢字には体系があり、そこから古代の世界が見えてくる」と幾度となく話していたという。『漢字の体系』は、それまでの部首順や50音順に並べた字書と違い、「天象」「鬼神」「医術」などテーマごとに字をまとめたり、同じ形を含む字をまとめたりして、漢字のつながりが分かるように体系的に分類したものだった。中国・後漢時代に書かれた文字学の聖典『説文解字』の解釈と並べて、それとは異なる白川さんの解釈を記述した、まさに白川さんの遺志が詰まった原稿だった。

 だが、同社では『白川静著作集 別巻』や、既存字書の改訂版、普及版などの刊行が優先され、『漢字の体系』が後になったという。2014年には白川編集部の社員が一人減り、竹内さんは「平凡社ライブラリー」の編集長も兼務することになり、ふたつを並行して担当した。

 ようやく2019年秋、前任編集者とともに進めてきた計20巻23冊に及ぶ『白川静著作集 別巻』の刊行が終わり、その後、本格的に『漢字の体系』の最終作業に取り組み始めた。

字書三部作と4冊目の字書『漢字の体系』。後ろの棚には「白川静著作集」が並ぶ
字書三部作と4冊目の字書『漢字の体系』。後ろの棚には「白川静著作集」が並ぶ

『漢字の体系』より「鬼」を含む漢字
『漢字の体系』より「鬼」を含む漢字

膨大な確認作業

 すでに他界した筆者の原稿をもとに字書を作る。故人には頼れないため、確認作業など編集者にかかる負担は大きい。『漢字の体系』の編集は、地道で時間のかかる作業となった。

 原稿の読みにくい字には楷書で書きそえる。新字、旧字の指定をする。引用が正しいかどうかなど、本人の著作や『説文解字』などの資料にさかのぼって確認する。ゲラになれば、原稿とつき合わせて字体が正しいかなどを改めて確認し、各項目の体裁を整える。

中国・後漢時代に書かれた『説文解字』。だいぶ使い古されている
中国・後漢時代に書かれた『説文解字』。だいぶ使い古されている

 校正者とともに作業するが、なかなか進まない。日に数ページがやっとだった。本文が終わり、ページが確定すると、索引を付ける作業も待っていた。

 「やっても、やっても、終わらなくて……」

 そんな竹内さんの支えになったのは、白川さんが言っていた言葉だったという。

 「山を移す、言うてな。何ページと決めて毎日少しずつやっておれば、いつの間にか終わっとる」

古代文字フォントの原稿
古代文字フォントの原稿

古代文字をフォント化

 編集作業を続ける中、コロナ禍が起きた。

 在宅勤務のため、ゲラなどを段ボール箱6つに詰めて自宅に送った。家にこもり集中して作業を続けた。

 印刷は、過去の字書から引き続き凸版印刷が担当した。『漢字の体系』の全項目には、文字の成り立ちを示すため甲骨文や金文、篆文といった古代文字が添えられているが、『字通』刊行の時に凸版印刷と平凡社の共同で古代文字をフォント化していた。コードを入れれば、絵のような文字が表示される。だが、これも一つずつ確認が必要だった。

後ろの書棚には、竹内さんが並行して担当する「平凡社ライブラリー」の既刊が並ぶ
後ろの書棚には、竹内さんが並行して担当する「平凡社ライブラリー」の既刊が並ぶ

 取り上げた漢字は約2500。地道な作業の末、昨年9月、1128ページにおよぶ大書が完成した。

 竹内さんは出来上がったばかりの『漢字の体系』を携え、京都市内にある白川さんの墓を訪れた。

 「長くかかってしまいましたが、ようやく刊行できました」

 そう報告すると、やっと肩の荷が下りた心地がした。

(じんぶん堂企画室 山田裕紀)

     ◇     ◇

*『漢字の体系』は3月末まで、刊行記念特別定価8000円(税別)で販売されています。

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