踊る熊たちの「自由」とは? 資本主義に戸惑う人々を描く異色のルポルタージュ
記事:白水社
記事:白水社
1
髪をなびかせ狂った目をしたその男は、どこからともなく現れたわけではない。ここでは前から知られていた。彼は、時折、ここの人々がどれほど偉大かを語り、みずからのルーツに戻るよう命じた。必要ならば、ありそうもない話とはいえ実に魅力的な陰謀論を挟み込んだ。宇宙人のこととか。注意を引くために。そして怖がらせるために。というのも、怖がらせると、自分の言うことをもっとよく聞くとわかったから。
人々は彼の存在に慣れ、ときに大真面目な顔で本当に可笑しなことを言うのにも慣れた。ときに彼は政治生活の周辺をうろつき、ときに主流に近づくこともあったが、それはちょっとした珍事として扱われた。
だがある日、人々は驚いて目をこすった。なぜなら、己の宇宙の黙示録を予言する、この髪をなびかせた男が、最高の賭け金で出馬したからだ。そしてまたもや、以前と同じく、少々怖がらせた──難民や戦争や宇宙人などで。実のところ怖がらせるものは何だってよかった。彼は国民のエゴを少々膨らませた。折を見て──いわゆるエリートの前では──少々笑い者になった。だが彼はたくさんの約束をした。何よりも、時間を巻き戻し、物事をかつてのようにすると約束した。つまり、もっと良くなると。
そして彼は勝った。
これがどこで起きたか、あなたがたはよくご存知でしょう? はい。そのとおり。私たちのところです。ポスト共産主義の中・東欧。変革の地においてです。
2
変革の地とは、ソヴィエト連邦とその衛星国と呼ばれる火山が噴火して消滅する直前に、その火山から流れだしたマグマだ。つまりそれはもっと以前から存在していた。なにしろポーランド人、セルビア人、ハンガリー人やチェコ人というのは非常に古い民族なのだから。だが第二次世界大戦以降、ここで暮らす私たちは、スターリン、ルーズヴェルト、チャーチルがヤルタで結んだ協定によって凍えさせられていた。その協定が私たちを力[フォース]の暗黒面[ダークサイド]に置き去りにしたのだ。
ソ連の影響下にある地域に。
マグマの最初の波が流れはじめたのは、1989年6月4日、ポーランドで最初の(ほぼ)自由選挙が行われたときだ。
それからベルリンの壁が崩壊した。その後マグマはもうどんどん流れだした。
ほどなくソヴィエト連邦とヤルタ協定後の秩序全体が崩壊した。
私たちは自由になった。ポーランド人、セルビア人、ハンガリー人だけでなく、エストニア人、リトアニア人、ウクライナ人、ブルガリア人、キルギス人、タジク人、カザフ人等々も。世界の大きな一部が自由を得たが、それに対する準備はできていなかった。極端な場合──全然それを期待してもいなければ、望んでもいなかったのだ。
世界の大きな一部はみずからを解凍して、この世界が実際にどのように動いているのかを急いで学ばねばならなかった。世界の中にいかにして自分の場所を見つけるかを。ひとことで言えば──自由とは何かを学ばねばならなかった。そしてそれをどう使うのかを。
3
踊る熊たちの歴史を私に語ってくれたのは、ワルシャワで知り合ったブルガリア人ジャーナリスト、クラシミル・クルモフである。
熊たちは何年も踊るための訓練をさせられ、実にひどい扱いを受けてきた、とクラシミルは言った。調教師たちは熊を家で飼っていた。小さな頃からたたいて踊りを教えた。折を見て熊の歯をすべて抜いた。熊が、自分は調教師よりも強いということを急に思い出したりしないように。彼らは熊の精神を打ち砕いた。アルコールを飲ませた──多くの熊たちがその後、強い酒に依存するようになった。それから観光客向けにさまざまな奇妙な芸をするよう命じた──踊りをはじめ、さまざまな有名人の物真似、マッサージにいたるまで。
そして2007年にブルガリアが欧州連合に加盟すると、突然、踊る熊たちは非合法になった。オーストリアの団体〈四つ足[フォー・ポーズ]〉はソフィア近郊に特別なセンターを開設した。調教師から引き取られた熊たちは、ベリツァという町にあるそのセンターに収容された。鞭がなくなり、残虐行為がなくなり、鼻輪がなくなった。〈四つ足〉のスタッフが言うには、これらは熊たちの囚われの身の象徴だった。ユニークなプロジェクトが始まった。一度も自由の身だったことがない生き物に自由を教えるのだ。一歩一歩。ゆっくりと。慎重に。
ベリツァのセンターは前例のない自由の実験室となった。動物たちは、自由な熊がいかに動くべきかを教わった。いかに自分の将来を得ようと努力すべきか。どうやって冬眠するか。どうやって交尾するか。どうやって食べ物を得るのかを。
クラシミルの話を聞きながら、私は自分も似たような実験室で暮らしているのだと思った。1989年にポーランドで民主化が始まってから、私たちの生活もまた絶え間ない自由の実験室となったのだ。自由とは何か、それをいかに使うのか、そのためにいくら支払うのかを学ぶ絶え間ない学習。私たちはまた、自由な人間がいかにして、自分自身や自分の家族、自分の将来を気にかけるかを学ばねばならない。いかにして食べ、いかにして眠り、いかにして愛しあうのかを──なぜなら社会主義諸国では、国家が国民の皿もベッドものぞきこんでいたのだから。
そして、ベリツァの熊たちのように、私たちは自由にうまく対処できることもあれば、できないこともある。ときにそれは私たちを満足させることもあるが、ときに──私たちの抵抗を呼び起こすこともある。ときに私たちの攻撃性さえも。
4
初めてクラシミルに会ってから数年後、私はベリツァの〈踊る熊〉園に赴いた。自由の実験室とはどんなものか知りたかったのだ。私が知り得たことは、なかんずく次のとおり。
・自由は熊たちに徐々に与えられる。一気に与えてはいけない。さもないと自由で窒息してしまうから。
・自由にもそれなりの限度はある。熊にとってのそうした限度が電気柵である。
・これまで自由を知らなかった者にとって、自由はきわめて複雑なものだ。熊たちにとって、自分自身を気にかけねばならない生活を学ぶことは大変難しい。不可能な場合もある。
そして、引退したどの踊る熊にも自由であることがつらくなる瞬間があることを私は知った。そんなとき熊はどうするか? 後ろ足で立って……踊りだすのだ。園の職員がどうしてもやめさせたいと思っているまさにそのことを再現してしまう。奴隷の振る舞いを再現するのだ。戻ってきて、再び自分の生活の責任を取ってくれと調教師を呼ぶ。「鞭で打ってくれ、手ひどく扱ってくれ、でも自分の生活に対処しなくてはならないこの忌々しい必然性をどうか取り除いてくれ」──熊たちはこう言っているように見える。
そしてまた私は思った。これは一見、熊たちの物語のように見える。だが私たちの話でもあるのだと。
5
多くのことをたやすく約束する、髪をなびかせた者たちが、世界の中の私たちの地域で雨後の茸のように増殖する。人々は彼らの後についていく。熊が自分の調教師についていくように。なぜなら、自由が彼らにもたらしたのは、新たな味、新たな可能性、新たな視野だけではなかったからだ。
自由はまた、つねに対処できるとは限らない新たな課題ももたらした。社会主義時代には知らなかった失業。ホームレス。しばしば非常に野蛮な形をとる資本主義。そして人々もまた、熊たちのように、調教師が戻ってきて、せめてこうした課題の一部でも自分たちの肩から下ろしてくれたらいいのにと思うことがあるかもしれない。たとえ少しでも背骨の負担を軽くしてくれたらと。
あなたがたが手にしているこの本のための資料を集めていたとき、これは中・東欧と、私たちが共産主義から脱却する困難な道のりに関する本になるだろうと私は思った。しかしその間に、髪をなびかせ狂った目をした者たちは、共産主義を一度も経験しなかった国々にも現れはじめた。変わりゆく世界に対する恐れ、自分の生活に対する責任を私たちから多少なりとも取り除いてくれるだれか、昔のように(すなわち、もっと良く)なると私たちに約束してくれるだれかへの憧れ──これらは普遍的なものであることが判明した。そして変革の地にいる私たちだけでなく、西側の半分も、空約束以外に何も提案するものがない、髪をなびかせた人たちをちやほやしている。ただ、そうした約束はカサカサいう紙に包まれていて、中に飴玉が入っているふりをしているだけなのだ。
そして人々はこの飴玉のために後ろ足で立ちあがって踊りはじめる。
自由は痛い。そしてこれからも痛みつづけるだろう。私たちはそれに対して、踊る熊たちよりも高い対価を支払う覚悟はあるだろうか?
【ヴィトルト・シャブウォフスキ『踊る熊たち 冷戦後の体制転換にもがく人々』(白水社)所収「はじめに」より】
*ブルガリア語「熊使い」用語集
Мечка(メチカ)──熊
Мечкарまたはмечкадар(メチカルまたはメチカダル)──熊使い、調教師
Намордник(ナモルドニク)──熊の鼻面にかぶせたマスク、しばしば赤いポンポン付き
Холка(ホルカ)──熊使いが自分の熊の鼻に通した金属の輪
Гъдулка(ガドゥルカ)──熊使いが演奏するグスラという一弦または二弦のリュート型擦弦楽器