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戦国時代における大名家の女性の在り方を探る、新たな試み

記事:平凡社

『今川のおんな家長 寿桂尼』(平凡社)と著者の黒田基樹氏
『今川のおんな家長 寿桂尼』(平凡社)と著者の黒田基樹氏

 戦国大名家の女性が、戦国大名家の運営のうえでどのような役割を果たしていたのか、ということについては、いまだ具体的なことは十分に解明されていないといって過言ではない。本書は、その問題に本格的に取り組むべき第一歩として、戦国大名今川家の寿桂尼(1486頃~1568)という女性を取り上げ、その生涯を追究したものである。

 寿桂尼は、戦国大名今川家の初代にあたる今川氏親(1473~1526)の正妻で、嫡男氏輝(1513~1536)の生母にあたる。京都の中級公家の中御門宣胤の次女であった。永正2年(1505)頃、20歳頃に今川氏親と結婚し、京都から今川家の本拠・駿河国駿府に赴いた。氏親との間には、嫡男氏輝をはじめ2男3女を産んだ。氏親の正妻として「御前様」と称されたが、大永6年(1526)に氏親が死去し、嫡男氏輝が家督を継ぐと、「大方様」と称された。ところが氏輝は病弱であったらしく、すぐには政務を執ることができなかった。また政務を開始しても、しばしば政務を執れなくなっていた。その時に、当主の代行を務めたのが寿桂尼であった。それは大永6年から天文3年(1534)まで、断続的ながらも足かけ9年におよんだ。

 特筆されるのは、寿桂尼は自らの朱印(朱肉で押捺する印判)を作成し、その朱印を押捺して公文書(朱印状)を発給したことである。その数量も、氏輝の当主代行として出したもので15通にのぼっている。氏輝は何度か政務に復帰して、自ら公文書を発給するが、寿桂尼の朱印状とは時期は全く重なっていない。寿桂尼が朱印状を出している時期は、今川家の公文書は寿桂尼が出したものしか存在しない、という状況にあった。このことから氏輝当主期における寿桂尼の公文書発給は、まさに当主を代行したものと認識される。

 このように女性が戦国大名家当主を代行し、公文書を発給していた事例は、極めて珍しく、ほとんど事例をみることができない。そのなかでも寿桂尼が残した発給文書の数量は、群を抜いて多い。また寿桂尼は、天文五年に氏輝が若くして死去した後、当主に庶子の義元を据えるが、その後も自身の所領支配のため12通の朱印状を残している。寿桂尼が出した公文書は合計で27通にのぼり、これは戦国大名家の女性が出した公文書の数量としては最も多い。したがって寿桂尼こそが、戦国大名家の女性として最も代表的な存在といえ、その生涯を追究することで、戦国大名家の女性の実像の解明にもっとも近づくことができる。

 寿桂尼を追究することでみえてきたことに、当主家の妻・母の立場を位置付けるにあたって、正妻、「家」妻、そして「おんな家長」に区別することができる、ということがあげられる。「家」妻というのは、当主である男性家長と対をなして、「家」の主婦権(その内容の解明そのものがいまだ課題となっている)を管轄する存在であり、「おんな家長」は男性家長の不在もしくは政務が執れない状態に実質的に家長の役割を果たす存在になる。この「おんな家長」という表現は、本書の検討を通じて導き出した造語である。

 寿桂尼の生涯に照らしてみると、氏親と結婚した時は、その正妻であったが、「家」妻には氏親生母の北川殿が位置していた。寿桂尼が子どもを出産した頃に、北川殿は引退し、代わって寿桂尼が「家」妻についた。そして氏親の死後、氏輝が病弱の間、当主氏輝に代わって家長権を行使した。この状態が「おんな家長」になる。氏輝の政務復帰、続く義元の家督相続後は、「家」妻の立場に戻った。その後は一時的に義元正妻と「家」妻を交代したが、その死去により再び「家」妻につき、永禄元年(1558)頃に73歳頃でようやく引退する。「家」妻の役割を50年近くにおよんで果たしたことになる。

 本書において、女性が男性家長を代行する「おんな家長」という存在があったことを認識することができた。しかし当主不在もしくは政務が執れない時期に、必ず「おんな家長」が登場するのではなかったようだ。だとすればどのような状況の時に、「家」妻が当主代行を果たし、「おんな家長」として存在するのか、その在り方は何時消滅するのか、それらの解明は次なる課題である。そうであるものの、戦国時代の地域国家の国王の地位にあった戦国大名家当主の地位が、実質的に女性によって担われたことがあった、という事態は、大きな発見といえる。この事実は、古代から現在にいたる、男性と女性の関係の在り方とその変化をみていくうえで、重要な素材となることは確かといえる。

文/黒田基樹

『今川のおんな家長 寿桂尼』目次

第一章 今川氏親に嫁ぐ
寿桂尼の呼び名/寿桂尼の生まれ年/父・中御門宣胤/兄・中御門宣秀/その他の兄弟/寿桂尼の姉妹たち/夫・今川氏親/戦国大名今川家の誕生/姑・北川殿/「大上様」から「北川殿」へ/小姑・三条実望妻/三条実望妻と今川家の交流/寿桂尼の結婚の時期/なぜ寿桂尼が妻に迎えられたのか

第二章 今川家の正妻として
氏親の子どもたち/寿桂尼の子どもたち/寿桂尼と氏親の妾(女房衆)の関係/「家」妻の継承/『宣胤卿記』にみえる動向/宣胤からの贈り物/宣胤との書状のやり取り/宣胤との贈答のやり取り/兄宣秀の娘と朝比奈泰能の結婚/宣胤に金十両の贈答/永正十六年の交流/三条西実隆に「源氏物語」外題を所望/氏親の晩年と死去/氏親の葬儀

第三章 おんな家長の実像
寿桂尼の発給文書/寿桂尼文書の朱印と右筆/寿桂尼朱印状の登場/氏輝の政務開始/再度の当主代行/氏輝署名の寿桂尼朱印状/当主代行の継続/氏輝の政務復帰/寿桂尼による政務の性格

第四章 庶子義元の擁立
娘たちの結婚/氏輝と彦五郎の死去/恵探と承芳の立場/花蔵の乱の勃発/戦乱での寿桂尼の立場/寿桂尼の「注書」とは/新当主義元の成立/河東一乱の展開/氏親四女と瀬名貞綱の結婚/河東一乱終結のはたらきかけ/河東一乱の終結

第五章 「大方様」として
「家」妻を交替したのか/発給文書の再開/寿桂尼の出家/今川義元判物の取り成し/『言継卿記』にみえる寿桂尼/寿桂尼の居所/「御屋敷」の位置/寿桂尼の家臣たち/寿桂尼と同居の人々/今川家の「奥」の仕組み/「大方」としての寿桂尼の役割

第六章 駿府からの引退
「家」妻からの退任/沓谷への退去/義元の戦死/最後の発給文書/寿桂尼の死去とその影響/寿桂尼所領の行方/今川家の滅亡/「おんな家長」の消滅/「家」妻の近世的展開へ

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