トウモロコシの伝播により猛威を振るった病気「ペラグラ」 地域の個性化を食で読み解く
記事:朝倉書店
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トウモロコシは中部アメリカ原産の作物である。新大陸に進出したスペイン人の目にとまり、ヨーロッパに運ばれるとさっそく栽培が始められた。まず1525年にスペインで栽培された記録があり、続いて東地中海方面へと伝えられ、さらにその後、ヨーロッパ南部一帯に栽培が広がっていったようだ。トウモロコシはトルコムギ( イタリア語でGranoturco, ドイツ語でTürkischer Weizen)とも呼ばれるが、それはトルコ方面から伝わったからだとか、ヨーロッパでは外来のものをトルコ産と呼ぶからだとか、諸説紛々としている。
いずれにしても18世紀以降、その収穫率がきわめて高いことから、特に地中海沿岸地方からバルカン半島にかけての栽培条件の見合った地域で、食料としてトウモロコシは大々的に栽培されるようになった。特に貧しい農民向けに栽培は積極的に推奨された。その最も有名な例が、ハプスブルク帝国の女帝マリア・テレージアによるトウモロコシ増産政策(18世紀半ば)である。
当時、ハプスブルク帝国はヨーロッパ東部に広大な領土をもつヨーロッパ屈指の大国だった。しかし、イギリスやフランスに比べて産業の発達が遅れ、都市も未熟だった。そこで、帝国は農業を国家経済の柱に位置づけ、コムギなどを生産して西ヨーロッパ諸国に輸出する政策をとった。当時すでに美食への関心が高まっていたフランスに向けて、コムギをはじめ、ガチョウを大量に飼育してフォアグラを生産し、輸出した。この結果、東ヨーロッパは、西ヨーロッパのグルメを支える食材の供給地になっていった。ちなみに、この生産構造は後も継続されており、ハンガリーは今もフォアグラの世界的な生産地であり続けている。
輸出品としての農産物生産を拡大するために、帝国では大規模な農業開墾が進められ、労働力として多くの農民を小作人として利用し、彼らのために大量の食料を確保する必要が生じた。そこで目をつけたのがトウモロコシだった。栽培が比較的容易で、空腹から逃れることができたことから、トウモロコシは農民の食料の要となった。特に貧困な農民は、トウモロコシの粉をゆでたポレンタを唯一の食料とする暮らしを続けた。このあたりの経緯はプロイセンのジャガイモとそっくりである。
しかし、ジャガイモと違うのは、北イタリアやバルカン半島でトウモロコシを食べた農民の間で、ペラグラという病気がにわかに猛威を振るうようになったことである。この病気にかかると、日光に当たった皮膚に発疹が現れる。一見すると皮膚病のように見えるものの、次第に疲労や不眠が顕著になり、さらには脳の機能不全による錯乱、幻覚が起こり、ついには死に至る。18世紀頃から各地で発生し始めたこの得体の知れない病気は、農民を恐怖と絶望のどん底へと突き落とした。
ペラグラの原因がわかってくるのは1926年。アメリカ合衆国の医学者ジョゼフ・ゴールドバーガーによって、この病気が栄養失調症であることが突き止められて以降のことになる。犯人はトウモロコシと断定された。理由を簡単に言うと、もっぱらトウモロコシだけを食べていると、体内でニコチン酸をはじめとするナイアシンと呼ばれるビタミンが不足してくる。ナイアシンは体内の代謝を助けるなど生きてゆくのに欠かせない栄養素なので、結果として栄養欠乏となり、ペラグラが発症するというわけである。
こうして原因が解明されたため、以後、ポレンタを食べるヨーロッパの人々は、トウモロコシをほかの食材と合わせて食べるようになり、ペラグラの患者は大幅に減少した。しかし、20世紀半ば以降でもアメリカ合衆国南部や南アフリカ、インドなどでは、ほかの食材を手に入れられない人々が少なくなく、トウモロコシばかりを食べてペラグラを発病するケースが出ている。今もペラグラは完全撲滅には至っていない。
ところで、トウモロコシ料理といえばメキシコや中部アメリカが思い浮かぶ。これらの地域を中心にした南北アメリカの広い範囲でトウモロコシは主食の座にある。ここではトルティーヤと呼ばれるすりつぶしたトウモロコシを薄く焼いた伝統的なパンがあり、タコスなどにして大量に食べられている。肉や野菜など合わせて食べられるが、食材が手に入らなければトウモロコシだけの食事になる。にもかかわらず、これらの地域ではトウモロコシによる栄養失調症は無縁であり、ペラグラを恐れることもなかった。
では、なぜヨーロッパではペラグラが流行したのか。その理由はトウモロコシの処理の仕方にあった。原産地でもある中部アメリカでは古くからトウモロコシを常食としてきたが、その際、トウモロコシの粉をアルカリ処理して食べる工夫がなされてきた。トウモロコシの粒を消石灰や木灰のようなアルカリ水でアク抜きし、それをすりつぶして生地をつくる。そうするとナイアシンの欠乏症にならずにすむ。長い年月にわたって育んできた生活の知恵が、トウモロコシを主食としながら栄養失調症にかからない調理法を生み出してきたのである。
ところが、トウモロコシを持ち込んだヨーロッパには、そうした生活の知恵までは一緒に伝えられなかった。ヨーロッパではアク抜きをしないトウモロコシを粉にして、そのままゆでて粥のようにして食べていた。このトウモロコシでつくった料理がポレンタであり、ポレンタを食べているところでペラグラが大流行することになった。
しかし、それにしてもヨーロッパでそのような食べ方がなされてきたのには理由があるのではないか。じつは、ポレンタはそもそもトウモロコシではなく、ソバやタカキビ(モロコシ)などの雑穀でつくられていた。ヨーロッパには12 ~ 14世紀頃に中央アジアからソバなどの雑穀が伝わり、山間地などで栽培され、農民たちの食料として利用されてきた。それらは粉にしてゆでて粥のようにして食べられ、北イタリアではポレンタ、スロヴェニアではジュガンツィŽganci,ルーマニアではママリガMămăligăと呼ばれる伝統食として、地域の人々の暮らしを支えてきた。それが18世紀頃から国の政策などによってトウモロコシの栽培が拡大してゆくと、食材も一方的に雑穀からトウモロコシに切り替えられていった。しかし、原産地でアク抜きをしていることを知らされなかった人々は、これまでの雑穀と同じようにトウモロコシでポレンタをつくり続けたというわけである。
ちなみに、18世紀にイタリアを歩いたゲーテは、ブレンナー峠を越えたところ、現在の北イタリアのアルト・アディジェ州あたりで、現地の人々の顔色が悪いことを目撃しており、その理由がトウモロコシだけを食べる偏った食生活によるものだと、先述の『イタリア紀行』に記している。
「ブレンナーから下ってゆくうちに夜が明けると、さっそく私は人間の体格がすっかり変わっているのに気がついた。特に婦人たちの褐色がかった青白い顔色が私には感心できなかった。その容貌は生活の窮乏を語っていた。(中略)私はこの病的状態の原因が、玉蜀黍や蕎麦を常食とする点に見出されるように思う。玉蜀黍はここでは黄ブレンデと言われ、また蕎麦は黒ブレンデと言って、どちらも挽き砕いてその粉を茹でてどろどろのお粥にし、そのまま食べるのである。」12)
ここで重要なのは、食料の選択の機会が著しく限られた貧困な人々の間でペラグラが発症した点である。ゲーテが見たのは、国家経済の発展の陰で犠牲を強いられた人々の姿だった。まさに社会の弱者の間に病気が蔓延したわけで、ペラグラは社会の不平等や食の不平等と対応して起こったということができる。多くの犠牲者を出したのち、1930年代以降、治療法は確立され、この病気は徐々に忘れ去られていく。しかし、先述のように、今でもインド南部やエジプト、南アフリカの貧困な人々の間でペラグラはしばしば発生している。