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「管理の象徴」としての学校制服の終焉 優れた「嗅覚」が生んだ制服史論

記事:創元社

書影『学校制服の文化史 日本近代における女子生徒服装の変遷』
書影『学校制服の文化史 日本近代における女子生徒服装の変遷』

企画立案のきっかけ

 難波知子氏を私が初めて知ったのは、2008年7月5日土曜日、早くも真夏日となった蒸し暑い日のことである。その日、上野の国立西洋美術館講堂で開催されていた、文化資源学会という、美術史家の木下直之先生が作った学会の研究発表大会に出席していた私は、ひとりの女性による生真面目な研究発表が、爆笑の渦に包まれるのを目の当たりにした。

 壇上から、いたって冷静に、ド派手なカラー学ランを羽織るメンチを切ったモデルの写真をパワポで映し出していたのが、今はお茶大准教授になっている難波氏その人であった。

 木下先生と企画の話を進めていたがゆえの出席であったが――結局、その企画は形にならなかった――難波氏のプレゼンを聞いた私は、これは面白い企画になるに違いないと確信し、翌週には、難波氏に宛てて、プレゼンを聞いた経緯と、博論完成の暁にはぜひそれを本にしたい旨を記した書簡を投函したのであった。本になったのは、それから4年後のことである。

「なんちゃって制服」への着眼

 本書の冒頭には、難波氏が学校制服に着眼したきっかけが次のように記されている。

学校制服に強い関心をもたなかった私が制服研究を始めたきっかけは、2002~2003年頃から流行するようになった「なんちゃって制服」である。(中略)この流行を報道したメディアによれば、女子高校生たちは今しか着ることのできない制服をかわいく着こなしたいという願望をもっており、以前には「管理の象徴」と捉えられていた制服観が、「自分を演出するファッション」へと変わった様子が指摘された。(1頁)

 ここまでは、よくある話と言えるであろう。難波氏らしさが発揮されるのは、「なんちゃって」な流行を検証していった先の次の一文に端的に現れている。

「こうしてみてくると、私服の領域での流行である「なんちゃって制服」は、これまでの学校制服のあり様と無関係に展開した不可思議な流行ではなく、その文化的土壌に根差したものであるといえそうである。むしろ「なんちゃって制服」から逆照射されるのは、これまで学校制服がどのように人々に受け入れられ、価値づけられてきたかということである。着用者も学校制服を様々な理由で欲望し、求めてきたのではないか。これが、「なんちゃって制服」の流行から得た私の学校制服に対する問題意識である。(2-3頁)

 その「文化的土壌」を明らかにすべく、時間を遡及し、明治前期の洋装導入から1930年代までの主に女子学校制服史を新たに書き直したのが本書である。もちろん、弱冠30歳にしての通史書き直しは大胆な行為であるが、それを可能にしたのが、難波氏の史料に対する抜群のセンスの良さであった。これは、いわゆる家政学者のセンスというより、歴史学者のセンスに近い。難波氏が属する家政学の世界で、なかなか研究が評価されにくい理由の一端もそこに現れていると私は確信している。

史料センスが生んだ類を見ない学校制服図録

 研究書を編む中で、難波氏の史料センスを実感した私は、次に研究で集めた史料をベースにした図録の企画を依頼した。結局その出版までにはまた4年近くを要したが、出来上がった図録は、博論出版後新たに収集したヴィジュアルな史料が満載のものとなった。

『近代日本学校制服図録』185-186ページ。
『近代日本学校制服図録』185-186ページ。

 とくに傑作なのが、第3部の「大衆衣料としての学制服」である。岡山県総社市に生まれ高校までをその地に過ごした難波氏は、繊維業衰退の中、学校制服というニッチな分野に活路を見出していた、地場産業としての制服業にも早くから史料収集の触手を伸ばしていたのである。第26章の「児島における学生服製造」の「児島」とは岡山県児島市を指す。

 また、第25章の「学生服の商標ラベル」の貴重な図像には、ありきたりのファッション通史からだけではなく、教育史からも抜け落ちている、「なんちゃって制服」的な大衆の欲望が見事に反映されており、見ていて飽きない。

 研究のための史料の収集・選択に関しては、昔から、「努力」という単語よりも、「センス」や「嗅覚」という単語が好まれる傾向が強い。難波氏はその意味で、優れた「嗅覚」をもって生まれた家政学者と言えるであろう。

(編集局・山口泰生)

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