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「メディア論」から目が離せない 紀伊國屋書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

「わたしたちの身体と世界の関係そのものを変えていくような、メディア環境の全体的な話も本質的です」(本文より)
「わたしたちの身体と世界の関係そのものを変えていくような、メディア環境の全体的な話も本質的です」(本文より)

 今回は「メディア論×人文学」の三冊です。

 「メディア」というと、マスコミやネットの話になりがちですが、わたしたちの身体と世界の関係そのものを変えていくような、メディア環境の全体的な話も本質的です。「メディア論」は、哲学、社会学、歴史、文学、アート、情報科学などの領域を越える知性たちによる思考と実践が詰まった、人文系でも目が離せないフィールドです。

細心の編集ぶりが光る入門書

 一冊目は、今年出た画期的な入門書『クリティカル・ワード メディア論』(門林岳史・増田展大【編】)(フィルムアート社)です。

 物理的に非常に軽やかな本ですが、深いアプローチへの扉がそこここにある、細心の編集ぶりが光る一冊です。「理論編」「系譜編」「歴史編」の3部構成、全部で35のキーワード別の解説は、興味に任せてランダムにも読めますが、関連する用語をたぐっていって結局全部読んでしまう人が多いのでは。

「メディア考古学」とは?

 二冊目は、エルキ・フータモ『メディア考古学――過去・現在・未来の対話のために』(太田純貴【編訳】)(NTT出版)です。

 一冊目『クリティカル・ワード メディア論』の第3部「歴史編―メディア考古学の実践」でさりげなく前面に出てくる「メディア考古学」を書名に冠した今のところ唯一の和書です。

 「メディア考古学」は、メディアへの歴史的アプローチの中でも、技術と文化が深いところで交わる受容・実践の場、その物質・記号的な基盤を掘り当て、そこにありえた豊かな可能性を蘇らせようとする特色があります。

 よく「ニューメディア」といっても、普及するためには「オールドメディア」になじんだ人々の感覚にも訴える必要があることが指摘されるように、現在只今の最新メディアの一歩先を見るためにも、過去の人々のメディア文化を探る意味がありそうです。

 映画以前の視覚文化から現代の携帯電話やメディアアートまで、新旧のメディアを対話させる本書のアプローチを支えているのは、文学由来の概念「トポス」の拡張など、過去の人文知との対話でもあります。

 「メディア考古学」は、歴史、思想、文学、芸術の側からメディアを考える人にとっても未来を開くキーワードとして、関心を集め続けるでしょう。

待望のクールな「鈍器」本

 最後の三冊目は、とびきりの大著です。

 今年、フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800・1900』(大宮勘一郎・石田雄一【訳】)(インスクリプト)が遂に出たのは、その「鈍器」性も含めて事件でした。

 キットラーは、『クリティカル・ワード メディア論』に何度か出てくるドイツのメディア学の大物で、フータモ『メディア考古学』でも「メディア考古学」の重要な元祖の一人として登場します。

 本書はそのキットラーの主著ながら、邦訳が遅れに遅れて「未訳の名著」であり続けていました。キットラー没後十年の今年に間に合ったのは奇遇でしょうか。待っただけあって訳文はすばらしく、難解で知られるキットラーのドイツ語の解像度がぐんと上がって、翻訳(痒いところに手の届く「訳注」とともに)のありがたさをかみしめています。

 キットラーが元々の専門の文学研究の枠を飛び越えて、ドイツ独自の「メディア学」を発展させていく基盤となった本書(初版1985年・第3版1995年)は、二つの世紀転換期「1800」と「1900」(前後15年ほどの幅を含む年代)における「書く技術」を軸とするメディアシステムの移行を論じています。

 思わぬ分野の同時代文献、情報通信工学の用語、フランス現代思想からもフーコーの言説分析やラカンの精神分析を駆使し、国語教育でおなじみの「作者の意図」などすっ飛ばして、言説を吐き出すシステムの挙動をクールに記述する異形のテクストは、約800頁の訳書でも時を忘れて読み続けてしまう迫力があります。

 「1900」の現代心理学と新たな視聴覚メディアとタイプライターが、人間を徹底的に解体し、書く身体を変容させていく風景も圧巻ですが、そこで失われたものを理解するためにも、活字メディアの過ぎ去りし黄金時代たる「1800」が重要です。「書物という古い記録保存媒体が工学的通信技術に比肩する機能を果たす」歴史的瞬間の成立を、キットラーは当時の「識字教育」に起きていた変化から説き明かします。

 幼児教育のための初級読本に見られる文字=音声=意味の新たな結合関係は、近代国家の国民教育において言語の最初のイニシエーションを「母の口」が担う核家族の時代に対応していました。この始原の言語獲得体験(この上なく身体感覚的で官能的でさえある)こそが、書字(単なるシニフィアン)の行間に(母なる)「自然」や「精神」(究極のシニフィエ)を読み込む、詩人と哲学者の「解釈者の共同体」、「作者」なるシステムを始動させるものでした。

 本書に登場する目くるめく文学・思想テクスト群の中でも、キットラーが特に詳しく論じる小説が、E・T・A・ホフマン『黄金の壺』です。この文学こそかつてのマルチメディアだったことを思い出させる幻想文学の傑作は、「他に類を見ないほどに1800年前後の読む行為と書く行為を記述しているテクスト」として、「1900」の中でもその変化を例証する狂言回しのように繰り返し言及される作品ですので、ぜひ一読をおすすめします。

 個人的な話ですが、大学の卒論でホフマンを取り上げた関連で、キットラーの有名な論文に出会いました。当時はとても歯が立たなくて、卒業後キットラーの原書を集め本書は二十年ほども抱えてきただけに、今回の訳書刊行は感慨ひとしおです。

 いつか理解したいと思っているうちに、キットラーは遠くへ行ってしまったのですが、筆者なりに彼のテクストから受け取ったことはあります。言語や文学から入るのであれメディアを学ぶ意味は、膨大な情報のネットワークに絡め取られて見失いがちなシステムの「コード」のようなものを読み解く能力=広い意味の「リテラシー」を養うことではないかと。

 今回ご紹介した三冊は、そのコアのところへ連れて行ってくれる力のある著作だと信じています。

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