海の「無法地帯」をゆく! ピュリツァー賞受賞記者の冒険
記事:白水社
記事:白水社
わたしは幼い頃から海に魅せられてきた。ある年の厳寒のシカゴで、その魅力にとうとう屈してしまった。シカゴ大学の歴史と人類学の博士課程に進んで5年目のその冬、博士論文の完成を先延ばしにする決断を下してシンガポールに逃避し、〈ヘラクレイトス〉という海洋調査船の甲板員兼専属人類学者という臨時職を得たのだ。しかしそのアルバイトをしていた3カ月間、〈ヘラクレイトス〉は書類の不備で1度たりとも出航することはなかった。わたしはと言えば、港に停泊していたさまざまな船の乗組員たちとの交友の輪を広げることで無聊を慰めていた。
シンガポールの港でくすぶっていた3カ月のうちに、わたしは商船と遠洋漁船の乗組員たちとのファーストコンタクトを果たした。そして流浪の民とも言える彼らに、心をわしづかみにされてしまった。陸の上だけで暮らす人びとの眼に、彼ら海で働く人びとはほとんど映ることはない。彼らは陸のそれとは異なる独自の言葉と作法、そして迷信と序列と規律を共有している。そして彼らから聞いた話からすると、陸では犯罪とされるいくつかの行為は、海ではとがめられないことがあるらしい。彼らの世界では、そうした伝統は法律と同じ効力を保っているのだ。
海に生きる人びとと話をしているうちに、明快にわかってきたことがある。それは、海上輸送は空輸に比べて格段に安くつくということだ。そこまで安価な理由の1つとして、海上輸送のルートである公海を管理統括する公的機関も、さまざまな規則による拘束も存在しないことが挙げられる。この現実は何でもありの無秩序をもたらし、結果として海を脱税の道具にしたり武器庫にしたりする人間が出てきている。そうした輩の1例がアメリカ政府だ。彼らは、シリアの化学兵器の分解作業やテロリスト容疑者の拘束・尋問、そしてオサマ・ビン・ラディンの 亡骸 の投棄の場所として、法にも規制にも縛られない公海を選んだ。公海上で無法者たちの標的となるのはもっぱら漁業と海運業に携わる人びとだが、同時に彼らにしても無法の海の恩恵を受けたり、さらには自らが不法行為をはたらいたりしている。
結局、博士論文を書き上げることはできなかった。学位を取り損ねたわたしは、2003年に『ニューヨーク・タイムズ』に職を得た。それから10年間の記者修行のうちに、海の世界についての特集記事を書かせてほしいと何度か提案したが、そのたびに却下された。わたしはありとあらゆる比喩を駆使して訴えた──海とは何でも食べ放題のビュッフェのようなもので、チャンスがいたるところに浮かんでいるんです。地球の表面の3分の2を占めているのに、海のことはほとんど世間に知られていません。海のことを徹底的に調べて報道した記者なんかいないからですよ。いたとしてもほんのわずかでしょうし。こんな感じに頑張って説得した。
すると2014年、当時の調査報道部の編集者だったレベッカ・コーベットがわたしの提案に納得し、受け入れてくれた。そして魚ではなく人間に焦点を当てて、海上での人権と労働問題を徹底的に掘り下げて調査するよう如才なくアドバイスしてくれた。この二つのレンズを通して見れば、おのずと環境問題も浮かび上がってくるのだからと彼女は言った。「 無法の大洋 」シリーズの第1弾は2015年7月に紙面を飾った。それから翌年にかけて10を超える記事が掲載された。2017年1月、わたしは本書執筆の調査を続行すべく社を15カ月間休職し、旅に出た。
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その15カ月間、ずっと海に出ていたわけではない。何度も旅を中断して、そのあいだに海に関する書籍文献を貪るように読んだ。古来より海は、実際的にも抽象的にも人それぞれに異なる意味を持っている。海とは無限と究極の自由の象徴であり、公権力から完全に切り離された場所だ。ある人びとにとっては避難所であり、別の人びとにとっては監獄でもある。すべてを呑み込む獰猛な嵐、全滅した探検隊、遭難した船乗り、そして強欲なハンターたち……海洋文学の古典は、大海原とそこに生きる奔放な荒くれ者たちを鮮やかに描き出している。彼ら荒くれ者たちは何世紀ものあいだ、もっぱらやりたい放題にやってきて、ガラパゴス諸島の小鳥たちよろしく、外敵に脅かされることもなく独自の進化を遂げてきた。そして驚くことに、その状況は今でも変わりはないのだ。本書にかけるわたしの望みとは、現代の海の荒くれ者たちとその縄張りを克明に描き、彼らの存在を広く知らしめることにある。
記事を書くな、物語を語れ──『ニューヨーク・タイムズ』で耳にタコができるぐらい聞かされてきた言葉だ。本書を1人称視点の海洋紀行に仕上げるべく、わたしは陸での取材や過去の文献への参照になるべく頼らず、実際に船に乗り、その乗組員たちからじかに話を聞くように心がけた。乗り込んだ船の多くは漁船だが、貨物船やクルーズ客船、医療船、武器保管船、調査船や環境保護団体の船、さらには軍艦や警察船舶、沿岸警備隊の巡視船にも乗ってみた。
こうした野心的なテーマに取り組む執筆プロジェクトには大きなリスクがある。言ってみれば、海を沸騰させてしまうのだ〔 boil the oceanには「過剰に無意味なことをする」という意味がある〕。取材をしている最中でも、あっちにふらふらこっちにふらふらと興味が移ってしまい、ジャーナリストというよりも落ち着きのない子どものようになってしまうこともままあった。しかし旅を続けていくうちに、1つの話がさらに別の話へとわたしを導いていくのだから、それも仕方のないことだった。しかもその無数の話をどれ1つ取ってみても、理路整然とまとまったものもなければ正邪の区別がはっきりとつけられるものでもなく、誰が善で誰が悪なのか、もしくは誰が略奪者で誰がその犠牲者なのかの見分けもつかないものばかりだった。海で拾ってきたそれぞれの話には、海そのものと同様に無秩序な広がりがあり、筋の通った1つの物語にまとめ上げることなど不可能だった。なので、本書の各章をエッセイ集としてまとめてみることにした。そうすれば読者のみなさんそれぞれが独自のやり方で点と点を結び、わたしのものとは異なる物語を紡ぎ出すことができると確信したからだ。
何だかんだ言ったところで、結局のところ本書の目的は、めったに眼に触れることにない世界を見せることにある。ギリシアの港からタンカーをこっそりと出港させて領海外に持ち出す債権回収人。メキシコの港から妊婦を内密にこの国の法律が適用されない海に連れ出し、陸では違法とされている人工妊娠中絶を行う女医。南大西洋では国際刑事警察機構(ICPO)に指名手配されている違法操業常習船を追跡し、南氷洋で日本の最後の商業捕鯨船を追い回して妨害活動を展開する、過激な自然保護活動家たち。本書にはそうした人びとを描いている。南シナ海では、2つの国が互いに人質を取るという、すわ武力衝突勃発かという膠着状態の只中に居合わせた話。海賊が跋扈するソマリア沖を、小さな木造漁船で漂流した話。そんなことも書いた。船が沈没する様子も目撃したことも、凶暴な嵐を切り抜けたことも、謀反寸前の状態を目の当たりにしたことも書いた。取材を続けているうちに、南氷洋と南大西洋では潜水艇に、オマーン湾では武器保管船に乗った。北氷洋とセレベス海の海上石油プラットフォームに上陸したこともある。それらも全部、本書に綴ってある。
この冒険とも言っていい取材旅行で、わたしは世界中の海でさまざまな船に乗り、さまざまな人びとに会い、さまざまなものを眼にしてきた。この両の眼を通して心に焼きつけてきたもののなかで、わたしが努めて本書の中にとらえようとしてきた、きわめて重要なものが2つある。それは、痛々しいほど無防備な海の実態と、そうした海での労働に従事する人びとが頻繁に味わわされる、暴力行為と惨状だ。
【イアン・アービナ『アウトロー・オーシャン 海の「無法地帯」をゆく』上巻「プロローグ」(白水社)より】
【著者による「アウトロー・オーシャン」紹介動画:The Outlaw Ocean: Presentation by Ian Urbina】