ミャンマークーデターから6カ月/上――深まる国軍と市民の溝
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
6月19日夕、200人を超える在日ミャンマー人らが、東京都渋谷区の国連大学前に集まっていた。
若い男性たちが、肖像写真をプリントした大きなビニールシートを広げて頭上に掲げた。強風にあおられながらも、倒すまいと必死に支えの棒を握り締め、踏ん張る。
シートには「Best Wish For Happy 76th Birthday」と書かれている。この日は肖像写真の女性、アウンサンスーチー氏の誕生日だった。
肖像写真の前には、バースデーケーキが用意されている。花の髪飾りがトレードマークのスーチー氏にちなんで、花を髪に刺した女性の姿があちこちで見られた。
「元気で早く戻ってきてください」「1時間でも長く生きることが、ミャンマーの未来のためになります」。参加者らは白い布に、国軍のクーデターで拘束されたスーチー氏の健康と釈放を願うメッセージをペンで書き込んだ。
多くのメッセージが、こう呼び掛けていた。「アメー・スー」。ミャンマー語で「スーお母さん」を意味する。民主化運動を長年率いてきたスーチー氏への思慕の強さが、改めて浮かんだ。
国家顧問兼外相のスーチー氏やウィンミン大統領ら国民民主連盟(NLD)の主要幹部は、国会開会日の2月1日、クーデターを起こした国軍に、首都ネピドーで拘束された。当初は自宅に軟禁されたスーチー氏だったが、その後、彼女自身もどこか分からない場所に移された。
本稿執筆段階で、スーチー氏は10件に上る事件で起訴されている。無線機の違法な輸入など比較的軽い罪の適用が多かったが、6月の7件目以降は汚職の罪だった。
国民の精神的支柱であるスーチー氏を隔離し、イメージを傷つけて、影響力を削ごうとする国軍の狙いが表れている。
それでもクーデターに対する国民の反発心は衰えない。
スーチー氏の誕生日直前の6月16日、サッカーのミャンマー代表選手としてワールドカップ(W杯)予選で来日していたピエリヤンアウンさん(25)が、関西国際空港で帰国を拒否。22日には大阪出入国在留管理局(大阪入管)で、難民認定を申請した。
ピエリヤンアウンさんは来日から6日後の5月28日、千葉市で開催された日本戦で、国歌斉唱の際、国軍への抵抗を意味する3本指を掲げた。指には英語で「WE NEED JUSTICE(私たちには正義が必要だ)」と書かれていた。
「世界の人々にミャンマーの現状を知ってもらうため、3本の指を立てた」。ピエリヤンアウンさんは、筆者のオンラインの取材に答えた。
クーデターが起きた2月1日、ピエリヤンアウンさんは、代表チームの合宿中で、最大都市ヤンゴンにいた。練習前の朝早く、チームメートの一人から「スーチー氏やウィンミン氏が拘束された」と聞いた時は、悪い冗談だと思った。だが、事実と知って驚き、抗議のデモに加わった。
国軍はクーデターの理由に、NLDが圧勝した昨年11月の総選挙での不正を挙げた。有権者名簿に大規模な重複があり、二重投票も可能だったのに、NLD政権は対応しなかったとして、クーデターを正当化した。
総選挙でNLDに投票したピエリヤンアウンさんは反論する。「デモに何千万人もの市民が参加したのを見れば、不正な選挙でないのは明らかだ」
抗議活動に参加し、命を落とした市民の中には、後輩のサッカー選手もいる。「鶏1羽を殺すように国民を殺す。そんな権力者は必要ない」。国軍への憤りは膨らんでいった。
代表チームへの招集を拒む選手も現れはじめたが、ピエリヤンアウンさんは参加を継続した。ミャンマーサッカー連盟が当初、選手らの希望に沿って「連盟は国軍とは別の独立した組織だ」との声明を出す意向を示していたからだ。
ところが、来日直前、連盟が公表した声明は、代表辞退者への罰則を示唆するなど選手への圧力めいた内容で、望みとかけ離れていた。このため「日本に着いたら、ミャンマーのために自分で何かしよう」と考えた。
試合会場を向かうバスの中で3本指を掲げる覚悟を決め、ペンで「WE NEED JUSTICE」と書いた。
試合後も葛藤は続いた。知人と相談し、身の安全のため日本に残ろうと決めたが、母国の家族に危険が及ばないか気にかかった。宿舎のホテルから逃げようとして警備員に捕まった。最終的に残留を決意したのは、関西国際空港の出国審査場。「ミャンマーには帰りたくない」と職員に意思を表明した。
ピエリヤンアウンさんは筆者に、今後への不安を明かしつつも、きっぱりと言った。「後悔はしない。『自分は正しいことをした』と胸を張って人々の前で歩くために決断した。正しい行動をしたことは、将来まで残る私の歴史となる」
7月2日、ピエリヤンアウンさんは大阪入管で、6カ月間の在留と就労を認める「特定活動」のビザを得た。クーデター後、日本政府が残留希望のミャンマー人のために導入した緊急避難措置が適用された形だ。
難民認定の結論は出なかったものの、ピエリヤンアウンさんは「自分を拾ってくれるところでサッカーをプレーしたい」と報道陣に語った。
折しも翌3日は、クーデターを主導した国軍のミンアウンフライン総司令官の65歳の誕生日だった。
現地メディアによると、各地で市民が総司令官用の棺に模した箱を用意するなどして抗議。スーチー氏とは真逆の嫌われ者ぶりを露呈した。
ピエリヤンアウンさんの故郷である第2の都市マンダレーでは、若者らが総司令官の写真が貼られた箱を燃やし、「あなたの誕生日と命日が同じ日でありますように」というメッセージを掲げたり、3本指をかざしたりして行進した。
総司令官の定年は以前、60歳だった。だが、ミンアウンフライン総司令官の任期中に65歳に延長された。さらに、2月のクーデター直後、その規定も撤廃された。
クーデターの正当化を含め、度を越した身勝手さに対して、国民は怒りを露わにしているのに、国軍が向き合う気配はない。
現地の人権団体「政治犯支援協会(AAPP)」の7月31日時点のまとめでは、クーデター発生以降、国軍による市民の死者は940人に上る。
国軍側は、こうした犠牲者数に基づく民主派の批判について「検証を伴わず、一方的」とはねつける。
他方で、自分たちに融和的な国には擦り寄っている。
ミンアウンフライン総司令官は6月20日から8日間かけて、ロシアを訪問した。
拙著でもロシアへの接近について触れたが、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、ミャンマーは2019年までの10年間で、8億700万ドル(約880億円)のロシア製兵器を購入したと推定されている。クーデター後、3月27日の国軍記念日に開かれた式典に、米英や日本が出席を控える中、ロシアはフォミン国防次官を派遣している。
ロシア訪問中、ミンアウンフライン総司令官はショイグ国防相らと会談し、友好関係を演出。欧米がクーデターへの批判を強める中で、ロシアを後ろ盾にしようとする姿勢が見える。
国内で国軍は2月下旬以降、民主派への弾圧を強めてきた。抗議デモの形態は現在、初期よりも小規模で短時間のゲリラ的になっている。
総司令官の訪ロ後の6月30日、国軍はクーデターへの抗議などで拘束されていた市民2300人を解放した。AAPPによると、前日時点で5200人余りが拘束されていた。
国を遠く離れた外遊に加え、大人数の解放は統治能力の誇示とも取れる。
とは言え、目立つ人間への圧力は弱めていない。解放された人々に、スーチー氏ら重要人物は含まれていない。ピエリヤンアウンさんが6月16日、帰国を拒否した後、マンダレーの実家には国軍の監視が付くようになったという。
たぎるような市民の不満は、国軍の締め付けを受けながらも、噴き出す場所を探している。民主派勢力が樹立した「挙国一致政府(NUG)」は5月5日、独自の部隊「国民防衛隊」を設立したと明らかにした。少数民族武装勢力と連携した「連邦軍」の準備組織に位置付けられている。
これをきっかけに、市民が各地で独自の武装勢力をつくる動きが活発化。国軍との衝突が起きている。
6月22日、マンダレーで、武装した民主派の市民の拠点を国軍が急襲し、複数の死者が出た。7月2日には北西部ザガイン管区で、国軍と市民の武装勢力の戦闘が起き、市民40人以上が死亡したと報じられている。
市民のクーデターへの抵抗は、職場を放棄して行政や経済の活動を麻痺させ、抗議の意思を示す「市民不服従運動(CDM)」や街頭デモ、SNSを使ったメッセージ拡散など、非暴力的な方法で推移してきた。しかし、一方の国軍が武力に物を言わせ、なりふり構わず民主派勢力を黙らせようとしてきたため、抗議活動は実を結んでいない。
このため、民主派勢力の一部は、武力での対抗を模索している。少数民族武装勢力のもとで訓練を受ける若者も相次いでいる。
ミャンマー情勢を話し合うため、東南アジア諸国連合(ASEAN)は4月、臨時首脳会議を開いた。ミャンマーからはミンアウンフライン総司令官が出席。加盟国は「当事者間の対話」「対話促進に向けてASEANの特使派遣」など5項目で合意したとされる。
ただ、ミャンマーで国内対話は進まず、特使の派遣は7月末段階で実現していない。
国軍が力で民主化勢力を押さえ付けながら、時間を稼ぎ、支配体制を固めようとする方向性が明確になっている。その頑なな姿勢に民主化勢力は不信感を高め、本格的な内戦化の恐れすらちらついている。
「ミャンマークーデターから6カ月/下――翻弄されるロヒンギャ」はこちら。
【webちくまより転載】