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「共生のためのリスクコミュニケーション」 —自分にとってのリスクを語りあい共有する「場」—

記事:明石書店

『リスクコミュニケーション――排除の言説から共生の対話へ』(明石書店)
『リスクコミュニケーション――排除の言説から共生の対話へ』(明石書店)

新型コロナウイルスの感染拡大下で考えたこと

 2019年の終わりから2020年のはじめにかけて、COVID-19、いわゆる新型コロナウイルス(以下、単にコロナやウイルスと記す場合がある)による世界的な感染拡大が起こった。日本でも政府や自治体が、後手に回ったり試行錯誤を繰り返したり、時には的外れな対策で失笑を買ったりしながらも、感染拡大のリスクを低下させ、人々の不安を取り除こうとしていた。しかしその実践の意図は果たしてそれだけなのだろうか。特定の集団や職種を危険視する言説を繰り出すことで、自らの充分ではない対策とその責任を他者に転嫁し、それによって自らのリスクを回避している面はないだろうか。政府や自治体は、自分たちの対策に批判的な見方をする市民を一種のリスクと見ているのではないのだろうか。

 編者の記憶で言えば、原発事故のときにもそのような実践があった。歴史は繰り返すという。ならば、新型コロナ感染拡大の今、リスク視され排除されていくもの、その排除の実践によって不可視化され覆い隠され批判を受けず温存されていくものに批判的な視線を向けることが必要なのではないだろうか。そこで「新型コロナ時代における『新しいリスクコミュニケーションのあり方』」を考えることとした。

リスクコミュニケーションの実践を可視化し批判的に考える

 本書が焦点を当てて取り上げるのは、権力の言説によって、社会においてリスクとして位置づけられるものや排除されていくものである。そのリスク視と排除を実践する言説を批判的に分析・考察することにより、そのリスク視されたものが本当にリスクなのか、リスクであるならば誰にとってのリスクなのか、他に隠されて言及されないリスクはないのか、それらのリスクを排除することで誰が安心を得るのか、誰かが新たなリスクを負うことはないのか、権力が自分自身の安定や継続を揺るがす恐れのあるものを権力にとってのリスクとして位置づけたり、自分自身を守るために排除する実践を行なったりしていないか、本来のリスクが軽視され充分に管理されない結果さらにリスクが大きくなっていないかなどを論じる。

 そもそもリスクを語ることができるのは誰なのか。それは専門家だけではないはずである。市井に生きる私たちがリスクを語ってよいはずである。充分な知識や理解がなくとも、誰もが、自分にとってのリスクを見積もり、語り、共有してよいはずである。それこそが共生のための「リスクコミュニケーション」なのではないか。専門的な知識を持つ人だけが一方的にリスクを語り、自らの主張とは異なる声をもリスクとみなす実践は排除の実践でもある。自らの主張とは異なるものを取り除けば、皆にとって安全安心な世界が訪れるのであろうか。自分や自分が信じる理念や思想と異なるものをリスク視して排除しようとする実践は、多様化した社会を否定し、個の尊厳を否定するものとなる大きな社会的リスクを有している。リスクの存在を指摘する言説に無批判に追従することには危うさもある。個々がそれぞれにとってのリスクを語り合い、それぞれがそれぞれにとってのリスク回避の方策を考えていくことこそが、社会全体のリスク低減につながるのではないか。「排除の言説から共生の言説へ」という副題はそのような意味も込めて付けたものである。

ことばをとおして社会の問題を可視化し批判的に考える

 種々のリスクは、ことばとその周辺(記号や図などの視覚情報も含む)を用いて記述され、提示され、伝達される。情報を受け取った人は、それを自分にとって最も有意味になるよう解釈する。したがって、あるものごとをリスクとして見るか見ないかは、人によってその判断や評価、程度の見積もりなどに差があって当然である。そこを利用して、ことばを介して行われるその判断や評価のプロセス、言い換えれば情報を発信し伝達し解釈するリスクコミュニケーションのプロセスの中に、なんらかの工夫を凝らして誘導や支配の意図と実践がひそかに、そして巧妙に組み込まれている場合もある。ならば、その誘導や支配の意図と実践を可視化できる知識や手法や経験知を持つのは、言語学研究者、特に語用論研究者であろう。

 ただそのような研究者であれば誰でもよいかというとそうではない。社会を見つめ、社会の問題に焦点を当て、可視化し、議論し、論争化し、その問題の解決や社会変革を目指すためにはそれなりの姿勢やリスクを引き受ける覚悟が求められる。言語の自律性を前提とする言語学においては、研究において政治に言及するのは言語学者の仕事ではないという不文律というか前提のようなものが空気としてあるからである。政治を語る言語学者がいたとしても、学問の世界という象牙の塔の高みに座り自分自身を安全な位置において発言し論文を書いているならば学問の世界に守られて安全安心であろうが、外の世界に出て行って自分自身の立ち位置を表明し、自らの理念に基づいて発言し実践していくということは、ときには自分自身の立場を危うくすることにさえなりかねない。

 この世の中にはリスク視されるものが多くあり、そのリスクを排除しようとする言説がある。そして、それによって実践される誘導や支配がある。しかし、それらを編者一人で分析し論じていくには時間や力がまったく足りない。そこで批判的談話研究や社会言語学、語用論といった社会と関わる言語学分野を主な専門領域とする研究者の中から、本書の姿勢に賛同してくださりそうな方々に声をおかけしたところ、幸いにも多くの方と一緒に本を作る体制を組むことができた。すでにそれぞれの分野で多くの業績を持つベテラン研究者から、博士課程の大学院生や博士号を取って1〜2年という新進気鋭の若手研究者までという幅広いメンバーが執筆することで、さまざまな事象に関わるリスク視と排除の言説を取り上げることが可能になり、本書の多様性も非常に豊かになった。

 本書の構成と各章の概要は以下の通りである。各章が取り上げるテーマはコロナ以前のものもコロナ関連のものあるが、みなそれぞれ今の状況と接点があるものである。

  • はじめに:名嶋 義直(本書の概説)
  • 序章:名嶋 義直([コロナ×沖縄]の報道にみるリスク視と排除の実践)
  • 1章:太田 奈名子(コロナと戦争メタファー)
  • 2章: 韓 娥凜(ヘイトスピーチ)
  • 3章: 村上 智里(外国にルーツを持つこどもたちの教育)
  • 4章: 義永 美央子(制服をめぐるジェンダー的問題)
  • 5章: 林 良子(障害者をめぐって)
  • 6章: 野呂 香代子(ドイツのコロナ対策と人間性疎外)
  • 7章: 西田 光一(コロナ時代の新しいコミュニケーションのあり方)
  • 8章: 名嶋 義直(食品の放射能汚染について)
  • おわりに:執筆者一人ひとりからのメッセージ

過去から今、そして未来へ

 各章ではそれぞれの切り口で論じるが、すべてに共通する点として以下の4点が挙げられる。まず、リスク視されたり排除されたりしていくものを取り上げる点、2つめは、言説分析を通してそのリスク視や排除の実践を明らかにしていく点、そして3つめは、未来に向けての提言である。権力にとって都合の悪いものをリスク視し、巧妙な言説でもってそれを排除していこうとする実践があるなら、それを可視化して批判的に論じるだけではなく、そのリスク視と排除の実践に向き合う方策、言い換えれば、「対抗するリスクコミュニケーション」のあり方をオルタナティブとして提示していくことも執筆者の社会的責務であろう。4つめは、それらの実践を自らの分析や考察が、これまで行われていたリスク視や排除を承認したりさらに新たなリスク視や排除を生み出したりしないようにする、結果的に権力側に立ったり権力側の実践に加担したりしないようにするという姿勢である。

 本書は社会を主体的に生きようとする市民、種々の社会問題に興味関心を持っている人々や批判的態度での社会参加を志向する人々を第一義的な読者として想定して執筆した。本書が、「新型コロナ時代」と呼ばれる社会を「主体的に生きる」人々にとって、自らをとりまく「語られているリスク」と「語られていないリスク」を批判的に考えながら「不当なリスク視」を可視化して適切にリスクコミュニケーションしていくためのヒントや、自分にとってのリスクをみんなで語りあう「場」の構築につながれば幸いである。

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